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背中を日に照らされているので、背中だけ、妙にあったかい冬の海。
冷たい潮風の吹く中、和香は波止場から海を覗いていた。
日差しに煌めく海面の下を小さな魚が行ったり来たりしている。
「これは……
動体視力の訓練にいいですね」
「……そのうち、素手で魚を捕まえてきそうだな」
横から和香と同じような体勢で海を覗き込みながら耀が言う。
「少し寒いな。
大丈夫か」
「はい。
課長、大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ」
キャメルのチェスターコートを脱ぎながら、耀は、
「これも着たらどうだ?」
と言い出した。
「いえいえ。
とんでもない。
大丈夫ですよ。
コートの上にコート着たら、雪だるまみたいになっちゃいますしね。
それより、温かいものでもおごりますよっ」
と和香は身を乗り出す。
なんだかんだで、いつも耀が出してくれるからおごりたかったのだ。
「じゃあ、そこの自販機でなにか温かいものでもおごってくれ」
自販機では大しておごり返したことになりませんが……、
と思ったが、海に屋台が出ているわけでもなく、他になにもないので。
とりあえず、すぐ近くの釣具店の横にある自動販売機へと向かった。
「なにがいいですか?
コーンスープとか、おしることか、甘酒とか?」
「……普通に温かい珈琲でいい」
わかりましたっ、と言いながら、和香は可愛いが開きにくい財布を開けてゴソゴソやる。
五百円玉をつかんだあとで、
「あっ、これはありがたい小銭だったっ」
と叫ぶ。
「すみません。
ちょっとお待ちくださいっ。
百円玉を……。
ああっ、これもありがたい小銭ではないですかっ」
「待て。
なんだ、ありがたい小銭って」
「新五百円玉ですっ。
こっちは新しい百円玉っ。
大事にとっておいたんですが」
「大事にとっておくうちに、年数が経って、新しい貨幣じゃなくなるだろうよ」
「か、課長のためなら、この新五百円をっ」
と自動販売機に向き直った和香は叫ぶ。
「課長っ、この自販機、新しい五百円玉使えませんっ」
「……だろうな」
やっぱり、おごろう、と耀はいい感じに使い込まれた革の長財布を出してくる。
「お待ちくださいっ、お待ちくださいっ」
あいや、しばし待たれいっ、くらいの勢いで、和香は耀の手をつかんで止める。
耀が赤くなって、和香から離れた。
「あ……えーと。
わ、私が払いますっ」
和香もちょっと照れてしまい、急いで千円札を突っ込んだ。
が、う~、という低い機械音とともに、千円札が押し戻されてくる。
「……なんかお前の人生を象徴してるな」
やっぱり俺がおごろう、と耀はさっさと小銭を入れてしまう。
「なにがいい?」
「じゃあ、あったかいミルクティーで。
はっ、そうだっ!
待ってください、課長っ。
電子マネーがありましたっ」
「大丈夫だ。
やめておけ。
きっとその電子マネーに残高はない」
それがお前の人生だ、と言われてしまった。
うう、すみません、と和香はミルクティーを手に、とぼとぼ埠頭に戻った。
「いいんじゃないか?
ちょっと抜けてる人生くらいが」
「そうですかねー。
まあ、復讐するつもりで入った会社で、復讐するつもりの相手によくしてもらったりするマヌケですからね」
「そうなのか?」
「……前回のイベントで私が出した企画、気に入って押してくれたの、専務だったらしいです。
子どもたちが喜びそうだからって。
大人向けの企画だったんですけどね……」
「死ぬほどお前らしいな」
「こんなダメ人間の側にいたら、課長にもダメが移りますよ」
ダメが移るってなんだ……と呟いたあとで、耀はこちらを向いてちょっと笑う。
「FBIにいたくらいハイスペックなのに、なにもいかせてないのがお前らしい。
心配しなくても、俺がずっとついてるから」
その言葉に、ちょっとドキリとしてしまう。
「いくらでもマヌケをさらせ」
「いや、それはちょっと……」
と言ったとき、周囲を見ながら、耀は言った。
「でも、なんか、お前を見守ってるの、俺ひとりじゃない気がして怖いんだが」
「なんですか?
忍者でもいるんですか?」
ははは、と笑う和香は、羽積は計算に入れていなかった。
あれは任務が終わっても、なんとなくただ自分を眺めているだけの人だからだ。
休日に、こんなところまで付いてきているはずもない。
そう思っていた。
少し話しながら漁港の方を通り、砂浜に向かった。
今度は鳥を見て動体視力を鍛えているうちに、日も落ちてくる。
夕日が海に映って綺麗だったが、風はずいぶん冷たく感じられるようになっていた。
「寒いか?」
と問われ、
「いえ」
と言う。
耀が足を止めて海の方を見た。
魚が跳ねたのが遠くに見える。
その飛沫が夕日にきらめくのを見て、耀が目を細めたとき、和香は言った。
「この間、課長とスーパーに行ったとき、言えなかったことがあるんですけど」
ん? と耀が振り向く。
「課長がお魚のコーナーを眺めてらしたとき、私、ちょうど生わかめの方見てまして。
そしたら、背後から聞こえてきたんです。
『怪盗さんまか……』っていう課長の声が。
絵本でもあるのかなと思って振り向いたら、課長は細長いパックを手に立ってらっしゃいました。
あれは、『解凍 サンマ』ってラベルに書いてあったのを読まれたんだったんですかね?
いや、ずっと気になってたんですけど。
でも、怪盗さんまと思ったとか口に出していったら、呆れられるかなと思ったので言わなかったんですが……」
「じゃあ、何故、今訊いた……?」
そんな話をしながら歩いているうちに、松林の向こうにお店らしき建物が見えてきた。
洒落た和風の建物だ。
冬なので、あっという間に日が落ち、暗くなった松林の中に、筆で店名の書かれた大きな提灯が浮かび上がって見える。
「こんなところにお店があるなんて……。
注文の多い料理店でしょうか」
「ここ、海だぞ。
っていうか、これ、蕎麦屋だろ」
耀は松葉庵と書かれたその灯りを見ながら、そちらに向かい歩き出した。