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## 招かれざる一歩
青年は、また「最初」の場所にいた。
自分が誰なのか、なぜここにいるのかも知らず、ただ身体に染みついた習性のままに、静かに本のページをめくっていた。
机の上のランプが、彼の横顔を小さく照らしている。
ここは時間の流れない、絶対的な静寂の世界。彼がページをめくる、かすかな紙擦れの音だけが、この世界のすべてだった。
――ト、ン。
聞き慣れない、硬い音が響いた。
青年は手を止めた。
それは、本を閉じる音でも、彼自身の足音でもなかった。書架の遥か奥、絶対的な闇の向こうから、何かがこちらへ歩いてくる。
現れたのは、一人の旅人だった。
服はあちこちが擦り切れ、見たこともない灰色の泥に汚れている。息を荒く乱し、今にも倒れそうなほど疲弊していたが、その瞳だけは、強い意志の光を宿していた。
「……人が、いるのか」
旅人は掠れた声で呟き、青年の前の床に崩れ落ちた。
青年は驚きで声が出なかった。この図書館に「他者」が存在するなど、彼の記憶のどこを探してもあり得ないことだったからだ。
青年は慌てて旅人を介抱した。ここには水も食べ物もなかったが、旅人は青年の机にあったランプの熱にすがるようにして、やがて静かに息を整えた。
「ここは、どこだ……」旅人が尋ねる。
「最果ての図書館です」青年は答えた。
「それ以上は、僕にも分かりません。僕はただの、ここの管理人ですから」
旅人は周囲の無限に続く書架を見上げ、自嘲気密に笑った。
「そうか、俺は世界の果てまで逃げ延びて、ついに死者の国にでも辿り着いたわけか」
旅人は、自分が滅びゆく世界から「外」を目指して歩き続けてきたこと、途中で仲間を失い、ただ一人でこの次元の隙間に迷い込んだことを語った。彼の話す言葉、彼の身に纏う「生」の生々しい匂いは、青年がいつも本の中で読んでいる世界の断片そのものだった。
青年は、この来訪者に奇妙な親近感と、それ以上の深い愛おしさを抱いた。
「あなたは死んでいません。ここは、かつてあった世界の記憶が、すべて美しく保管されている場所です。良ければ、あなたの世界のことも教えてくれませんか?」
二人は語り合った。いや、青年が旅人の壮絶な旅路の記憶を、ただ一心に聞き入っていた。
どれほどの時間が経っただろう。ここには時間がないため、それは一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。
やがて、旅人は満足したように深く息を吐き、机の上に置かれていた「一冊の白い本」に目を留めた。
青年の、あのループのトリガーとなる本だ。
「それは?」
「あ……それは、僕もまだ読んだことがない本です」
青年はなぜか胸騒ぎを覚えた。だが、旅人は吸い寄せられるようにその本を手に取り、表紙を開いてしまった。
「待って――」
青年が止めるよりも早く、旅人は声を上げて笑った。
「なんだこれは。俺たちが今話したことが、そのまま書かれているぞ。お前が俺の息遣いに驚いたことも、俺が故郷の話をしたことも、一文字も違わずに……」
旅人は楽しそうにページをパラパラと熟読し、そして、あっさりと最後のページをめくった。
そこには、いつもの結末が書かれていた。
『青年がこのページの最後の文字を読み終えた瞬間、この図書館のすべての本は白紙に戻り、彼の記憶もまた、最初からやり直される』
しかし、今回の結末には続きがあった。旅人の存在が、その因果を書き換えていたのだ。
『――ただし。もしもこの文字を読んだ者が【管理人以外の生者】であった場合、その生者の命と引き換えに、円環の鍵は破壊され、管理人は永劫の檻から解き放たれる』
「……え?」
旅人の身体が、足元から静かに白い光の粒子へと変わり始めていた。
「どういう、ことだ……?」青年は立ち上がり、旅人の手を掴もうとした。しかし、青年の指先は、光となって霧散していく旅人の身体をすり抜けるだけだった。
旅人は、自分の身体に起きていることを理解したようだった。だが、その顔に恐怖はなかった。ただ、世界の果てまで歩き続け、ついに自分の足跡を遺せる場所を見つけた、そんな深い安堵の笑みを浮かべていた。
「そうか。俺の旅の終わりは、ここだったんだな」
旅人は消えゆく手で、青年の頬にそっと触れた。
「お前が俺を覚えていてくれるなら、俺の旅は無駄じゃなかった。……生きてくれ、管理人」
最後の光が弾け、図書館は元の静寂に包まれた。
青年は、一人、机の前に立ち尽くしていた。
頭が割れるように痛かった。リセットの波が押し寄せていたが、今回は何かが違った。消え去ろうとする記憶の底から、過去に何千、何万回と繰り返してきた「絶望の記憶」が、濁流のように溢れ出してきたのだ。
自分が囚われていた無限の円環。
その虚無のすべてを、青年はついに「思い出した」。
しかし、彼の目から流れた涙は、絶望の涙ではなかった。
手元を見ると、あの白い本は跡形もなく消え去っていた。もう二度と、彼の記憶が奪われることはない。
青年は、自分の胸に手を当てた。そこには、今まで本を読んでも得られなかった、確かな「他者の温もり」が残っていた。彼はもう、何も知らない操り人形の管理人ではない。一人の旅人の命と記憶を背負った、本当の「観測者」になったのだ。
青年はランプを手に取った。
そして、生まれて初めて、いつも座っていた椅子を離れ、一度も足を踏み入れたことのない【書架の向こうの闇】に向かって、一歩を踏み出した。
背後で、かつて彼を縛っていた机と椅子が、静かに崩れ去っていく音が聞こえた。
コメント
1件
エコさん、読み終えました。第2話、「招かれざる一歩」。 もう、冒頭から「この空気感、好きだな」ってなりました。「最果ての図書館」という設定が第1話でどう触れられていたかは分からないんですけど、旅人との邂逅によって青年の中に「絶望の記憶」が溢れ出してきたあたり、この館のルールが少し見えた気がしました。「生者の命と引き換えに円環が破れる」という代償は重いけれど、それを彼が背負って初めて「観測者」になれたラストシーン。椅子を離れて闇へ踏み出す一歩が、静かだけど確かにドラマチックで、胸が熱くなりました。