第1話 お嬢様、恋に落ちすぎる**
朝の光が白いレース越しに差し込み、寝台の上で僕――ほとけは、胸に抱えた大きなぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。
そのぬいぐるみの名前は「いふくん」。
もちろん、僕の執事である 本物の いふとは別物だ。けれど、こんなふうに名前をつけてしまう程度には、僕は……僕は……。
「……好き。いふくん……好き……」
寝ぼけ声でそう呟いて、僕はまたぬいぐるみの顔をむにむにと撫でた。
――ドンッ!
「お、お嬢様ぁぁぁぁ!!入りますでぇぇぇ!!」
「あっ、うそっ!」
扉が勢いよく開いた。
本物のいふくんが、青い瞳をまんまるにして立っていた。
「お嬢様!? なんで俺の……ぬいぐるみ!? なんやそれぇ!」
「ち、違うの! これは、その……こう……っ!」
僕が枕ごと抱え込んだ瞬間、いふは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「お嬢様っ! ほんま、そないに俺のこと好きなん!?
正気に戻ってくださいっ!(泣)」
「戻りません!!」
「戻らんのかい!」
朝から騒音が響く。
廊下の向こうでメイドたちがクスクス笑っている気がする。
「あぁぁぁ……うちの大事なお嬢様が……こんな……」
いふが頭を抱えたその時――。
「……騒がしいなぁ。朝からイチャついとるん?」
ふわっと甘い香りとともに、窓から差し込む光のように彼女が現れた。
ほとけ家の離れに住む幼馴染、初兎(ういと)。白い髪をハーフアップにして、ゆったりしたパジャマ姿で。
「初兎ちゃん! 見てよ、いふくんがね――」
「いふ、泣きそうになってへん?」
「泣きそうちゃう! ただ俺の精神が限界なんや!」
初兎はふんわり笑って肩をすくめた。
「ほとけちゃん? ちょい恋が暴走しすぎやで?」
「……暴走なんかしてません。僕はただ、いふくんが好きで、好きで、好きで……」
「三回言うたな?」
「三回言いました!」
いふはさらに頭を抱える。
「うち……もう死ぬかもしれへん……心臓がもたへん……」
「僕の恋心で倒れないでよ!」
「倒れるわ!」
今日も朝から騒がしい。
◆
朝食は、いつものように豪華だった。
白いクロス、銀の食器、食卓で微笑む両親。
けれど僕は、それどころじゃなかった。
いふくんが、目の前で給仕してくれる。
白手袋の手が、僕の皿にふわりと触れる。
その瞬間。
「……ほとけお嬢様? なんで口元押さえて震えてるん?」
「尊い……」
「吐きそうみたいに言うな!」
「だって……だってね……!
いふくんって、僕にだけこんなに優しいんだよ……?」
「仕事や!!」
「じゃあ仕事として一生僕のそばにいてください」
「プロポーズ!? 朝食にプロポーズ!? お嬢様ぁ!」
両親が紅茶を噴きかけそうになった。
「ほとけ、ほどほどに。執事は家のものだよ?」
「うん。だから家ごと僕がいふくんを貰うよ」
「逆やろ!」
いふが慌てて声を上げる。
「うちの家ごと貰われてどうすんねん!」
「幸せになる!」
「ほとけちゃんぁぁぁぁぁ!!」
完全に涙目だ。
初兎は横でパンをかじりながら、笑いながら言った。
「まあ、いふ、あんたもお嬢様のこと好きなんやしええんちゃう?」
「すきちゃうわ!!!」
と叫びながら、いふの耳は真っ赤だった。
◆
その日の午後。
僕は広い庭で紅茶を飲みながら、ぼんやりと空を見ていた。
(いふくん……どうしてあんなに照れてたんだろう)
あんなに可愛いのに、自覚がないなんて罪だ。
そこへ、初兎がやってきて隣に腰かけた。
「ほとけちゃん。あんた、いふのことほんまに好きなんやなぁ」
「うん。もう、生まれ変わっても好きだと思う」
「ほな、ちょっとだけ助言したる」
初兎はにっこり笑う。
「いふ、実は結構……あんたのこと意識しとるで?」
「えっ!」
「ただし、執事としての立場と、自分の気持ちがごっちゃなっとるんよ。せやから暴走したあんたを止めるんや」
「暴走……」
「そや。朝からぬいぐるみ抱いとったら暴走や」
「……あれは愛です」
「暴走した愛や!」
二人で笑っていると――。
「こらぁぁぁぁ!!!」
庭の門から、巨大なカゴを抱えた人物が走ってきた。
「お嬢様ぁぁぁ! なに勝手に外出とるんですか! お茶はサロンで飲んでくださーーい!!」
いふだ。
「いふくん。僕は庭が好きなの。ここで飲む紅茶は格別なんだよ?」
「せやけど! メイドさん困ってたで!?
しかもまた俺のぬいぐるみ持ってきてるし!」
「連れてきたの」
「連れてきた!? 生き物みたいに言うなぁ!」
いふが僕の手元を見て目をひん剥いた。
「お嬢様……ホンマに正気に戻ってください……(泣)」
「だから戻らないって言ってるの!」
「なんでやぁぁ!!」
初兎が笑い転げている。
「いふ、泣きすぎやで?」
「泣くわ!!」
庭は今日も平和だった。
◆
夕方。
僕は、廊下の窓にもたれながら、一人でそっと息を吐いた。
――実は知っている。
いふが僕に優しいのは、仕事だからだということ。
でも、それでも。
「……好きなんだもん」
何度心に言い聞かせても、消えない気持ち。
すると後ろから、足音。
「……お嬢様?」
「あ、いふくん」
いふは少し息を切らしていた。
「さっきは……その……叫んでもうた。すまんかったな」
「ううん。怒ってないよ?」
僕は微笑んだ。
いふは、少しだけ頬を赤くしながら言う。
「お嬢様は……その……俺のこと、ほんまに……」
途中で言葉を止めた。
「……好きなん?」
息が止まるほどの瞬間だった。
「好きだよ」
堂々と答えると、いふは顔中を真っ赤にした。
「ひ、ひぃぃぃ……なんでそんなストレートに……!」
「好きだからだよ?」
「うぅぅぅぅ!! お嬢様ぁぁぁぁ!! 正気に戻ってぇぇ!!」
「まだ言うの!?」
「そら言うわぁ!!」
「僕が正気じゃないんじゃないよ。恋なんだよ」
「恋ってそんなに危険なん!?」
「危険です。あなたが原因でね」
「俺のせいかい!!」
いふは頭を抱えて廊下にしゃがみ込んだ。
「……いふくん。もしかして照れてるの?」
「照れてへん!!」
でも耳は真っ赤。
初兎の言葉が頭をよぎる。
(もしかして……ほんとに)
僕の胸が高鳴る。
◆
夜。
庭に灯されたランプの下で、初兎といふが話していた。
僕はこっそりカーテンの影から覗いてしまう。
「いふ、あんたほんまにほとけのこと好きなんちゃう?」
「ちが……ちがう……! 俺は執事やぞ!? お嬢様は主様や!」
「けど、名前呼ばれたとき、ちょい笑っとったで?」
「ばっ!? お、俺は……」
「ほら見ぃ、耳赤いわ」
「……」
しばらく沈黙した後。
「……もし好きやったとしても。俺は言わん。言えへん」
いふの声は、静かで、苦しそうで。
「お嬢様は……世界で一番幸せになってほしいんや。
執事の俺なんかよりも……もっと立派な相手が」
胸がぎゅっと痛くなった。
僕はそっとカーテンを閉じる。
(いふくん……そんなふうに思ってたんだ……)
知らなかった。
ただ拒否されてるだけじゃなかった。
(……僕、もっと知りたい)
いふの気持ちも、全部。
◆
夜が更ける。
僕は布団に入りながら、胸にぬいぐるみを抱き寄せてつぶやいた。
「次は、ちゃんと……ちゃんと向き合ってみる」
恋は暴走してるだけじゃだめだ。
好きだからこそ、ちゃんと向き合いたい。
彼に届く言葉で。
「ねえ、いふくん……」
窓から入る風が、そっと頬をくすぐる。
「僕ね……絶対、あなたを幸せにする」
そう決意した瞬間だった。
扉の外で、
「――お嬢様!? また俺のぬいぐるみ抱いてるぅぅ!? 正気に戻ってぇ!!」
「うるさい!」
叫び声と笑い声が混じり合い、夜は更けていった。
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