コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「──お着替え、終わりました」
柔らかな声とともに
最後に髪を整えたメイドが一歩退く。
仕立ての良い裾が音もなく揺れ
部屋を出ていく複数の足音が
カーペットの上で静かに消えていく。
残されたのは
白く磨かれた姿見の前に立つ、一人の青年。
ライエルは、鏡の中の自分に目を細めた。
漆黒の神父服──
だが、そこには信仰の穏やかさよりも
どこか凛とした張り詰めた空気が
纏わりついていた。
肩から腰にかけて
流れるように自然に身体に沿う輪郭。
きっちりと並んだ三十のくるみボタンが
胸元から裾までを縦に貫いている。
「⋯⋯うん」
小さく呟いて、指先を胸元に添える。
その手は細く
まだ覚束ない神の導きのようでもあったが──
その目だけは、確かな意志を湛えていた。
(流石、ボクのお気に入りの仕立て屋だね。
よく似合ってるよ)
精神の奥、鏡の向こうから響く声。
アラインの軽やかな囁きに
ライエルはふっと笑った。
(ふふ、ありがとう。アライン。
これなら、子供たちとも遊びやすそうだし
軽くて動きやすいよ)
(それに、背中の⋯⋯これ。
なんだか、自然と背筋が伸びていい感じ。
姿勢矯正のベルトかな?)
腰に手をあてて軽く捻ると
布がふわりと揺れた。
前裾は短く
後ろへ流れるように
燕尾状に伸びるロングカット。
柔らかな黒絹のような生地が
光を吸い込みながら控えめに揺れ
その動きが妙に視線を引きつける。
内側の裏地は
薄紫から暗灰への幻想的なグラデーション。
角度を変えると
淡く文様が浮かび上がる──
それはまるで、忘れ去られた記憶が
ふと夜に囁くような印象を残した。
(⋯⋯ああ、ボクにデザインを任せて
正解だったろう?)
くすくすと笑うアラインの声に
ライエルは鏡越しに目を細める。
その背中には
僅かに重みを感じる補強が仕込まれていた。
だが見た目には一切の無駄がなく
むしろ、ぴたりと収まったその仕立てが
彼の動きを自然に誘導していた。
「まるで⋯⋯
最初から、私のためにあった服みたいだね」
ライエルは、そっと袖を直すと
もう一度、全身を見つめる。
一見すれば
祈りと祝福に身を捧げる者のような姿。
だが、その奥で燻るものは
もっと鋭く、もっと深く
そして──
静かに燃えていた。
鏡に映るその目が
ゆっくりと変わっていく。
子供のような純粋さと
魔女一族の長としての威厳とが
僅かずつ、同じ光に溶け合っていく。
(⋯⋯よし)
胸の奥に、決意の灯がともる。
この服は、そのための〝装い〟だ。
「⋯⋯行こう。皆が待ってる」
小さく頷くと、ライエルは振り返り
部屋を後にした。
扉が閉じる直前
鏡の中で微かに笑うアラインの影が
ふっと揺らいだ。
⸻
坂道を登り切った瞬間、風が変わった。
街路樹の間を縫ってきた風が
ふいに広がる空の気配を運んでくる。
そこには、小さな広場があった。
騒がしさから少し離れた
まるで時の狭間に
ぽっかりと浮かぶような空間。
その奥──
灰白の石を積み上げた
重厚で静謐な建物がひっそりと佇んでいた。
三階建てのその館は
中央に高く伸びた尖塔を備えていた。
尖塔の先端には
空を裂くように鋳造された十字架。
まるで見えぬ天を仰ぎ
誰かの名を、誰かの願いを、誰かの祈りを──
ただ無言で受け止めているかのようだった。
外壁はところどころに
古い亀裂や補修の跡が見えたが
それらは不思議と〝傷〟ではなかった。
年月に耐え、手を加えられ
それでも崩れずに残された形。
それはむしろ、この建物が
〝生きてきた〟証のように思えた。
陽の傾きが変わるたびに
バラ窓から零れるステンドグラスの光が
そっと石の床を染める。
紅、藍、翠、金。
かつてこの窓に宿っていた物語とは
異なるかもしれない。
だが、今を生きる者たちの色が
静かにここに息づき始めていた。
正面のアーチ門は
厚い鉄で作られた二重扉。
施錠されているが
それは〝閉ざす〟ためのものではない。
それは
迎えるための〝約束〟のように見えた。
この扉が開くとき
ここは新しい時を迎えるのだと──
ライエルは、足を止めた。
ゆっくりと、呼吸を整える。
手袋越しに、鍵の感触を確かめる。
そして
小さな金属音を響かせて、錠を外した。
扉が開く音は、意外なほど静かだった。
重みのある蝶番が、ごく僅かに軋み
空気が内と外を繋ぐ。
石畳の短いアプローチが
館へとまっすぐ続いていた。
両脇には低く刈り込まれた植え込み。
その合間を小さな噴水が
穏やかに水を吐き出しており
鳥の囀りと水音だけがこの庭に満ちていた。
建物の中庭に面した側は
白い柱が連なる回廊になっている。
足音を吸い込む石造りの床。
そして
回廊の奥に静かに佇む、木扉の礼拝堂。
扉の先に広がるのは
二十名ほどが座れる小さな祈りの空間。
女神像が静かに立つその空間は
どこか母胎のような温もりを持ち
艶のある濃い木材の長椅子が
等間隔に並んでいる。
誰もまだ座っていない。
だが、その沈黙の中には
どこか──
遠い未来の祈りすら
既に宿っているようだった。
全体は、華美ではない。
だが、ひとつひとつの線に、無駄がない。
〝迎えるため〟に整え
誰かの〝はじまり〟を待ち受ける器。
ここは、まだ誰の手も染めていない。
子どもたちの声も
泣き声も、笑い声も知らない。
無垢で、静かで、ただ在るだけの空間。
だが、間もなく──
この静けさにも、命が宿る。
ライエルは、扉の前に立ち尽くしていた。
その背後には
数名の男女が静かに並んでいる。
元・フリューゲル・スナイダー。
アラインによって記憶を書き換えられ
今はこの運営を担う
〝善意ある者たち〟として
その一歩を踏み出す者たち。
ライエルは振り返らない。
ただ、真っ直ぐに前を向いたまま
静かに口を開いた。
「ようこそ──
ここが、我々の〝原点〟となる場所です」
その声はまだ若く、やや緊張を孕んでいた。
だが、それでも確かな想いが宿っていた。
「この場所が
誰かにとっての希望となるように。
そして──
我々にとっての、贖いとなるように」
その言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
古い館の空気が揺れる。
陽の光が
再びバラ窓を通って床を照らした。
そして今、この建物は──
ようやく〝家〟として、時を刻み始める。