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翌週、さすがに出社するのが嫌で、重い足を引きずって総務課のフロアに入った天莉は、朝礼で課長が告げた「うちの課の江根見くんが、営業企画課の横野くんと結婚することになった」という言葉に、ぼんやりとやはりあれは現実だったんだと思って。
足元がグラリと崩れ落ちる錯覚に襲われたけれど、何とか机に手をついてその場に留まった。
公言こそしていなかったけれど、博視と天莉が付き合っていたことを知っていた者は少なくない。
今、紗英と博視が祝福されたように、この会社は社内恋愛禁止ではないからだ。
業務に支障をきたすような場合はどちらかが異動になることもあるが、課が違えばそんな心配もない。
予期せぬ組み合わせでの突然の結婚報告に、一部の人間がひそひそとささやく声が聞こえてくるようで、天莉はいたたまれない気持ちになった。
そんな天莉に、皆からの祝福もそこそこにすぐそばまで駆け寄ってきた紗英が、天莉にしか聞こえないくらいの小声で言うのだ。
「玉木先輩、後から来て年齢もっ! うんと先輩より若い紗英の方が先に結婚することになっちゃってホント申し訳ないですぅ。先輩も行き遅れないよう婚活、頑張って下さいねっ? 名前の通り、先輩が天莉ものになっちゃったらって……実は紗英、めちゃくちゃ心配してるんですよぉ? あ、もちろん博視も! 彼も同期のよしみで先輩のこと、すっごく気にしてましたのでぇー、あんまり気を揉ませないであげてくださいねー?」
その言葉は傷ついた天莉の心をさらに深く傷つけて。
腹立たしいと言う気持ちより、居た堪れない想いに侵食される。
心の中、『あなたの名前こそ江根見だなんて……ホント敵そのものじゃない』とか思ったけれど、心が疲弊しすぎていて何も言い返す気にはなれなかった。
***
朝から身体がふわふわと覚束ないのは、何だかんだ言ってショックで、誕生日の夜以降マトモにご飯を食べられていないからかも知れない。
酩酊感に似た気分の悪さは、時間を追うにつれてどんどん強くなって。
定時を迎えた頃には限界間近。
さすがに今日は早めに帰ろうと、やっとの思いで帰り支度を整えた天莉だったのだけれど――。
「玉木くん、ちょっといいかな?」
天莉が退社しようとしている空気を察したのか、どこか焦った様子の課長に呼び止められた。
「これなんだけどね。実はキミの後輩の江根見くんに頼んでた仕事なんだけど……彼女、悪阻でしんどいみたいでさ。この後すぐ横野くんと帰ってもらうことにしたんだ。それで……」
紗英は、新卒入社時から、天莉が教育係になって面倒を見てきた後輩だ。
すでに入社から一年近く過ぎた現在は入社直後の頃みたいに補佐なんて要らないはずなのだが、紗英は未だにしょっちゅう「先輩」と泣きついてきては天莉を頼ってくる。
紗英の同期の子たちは皆教育係の手を離れて独り立ちしているのを見てもおかしな話なのだが、紗英には一人前になると言う選択肢自体がないらしい。
恐らくはこの姿勢、紗英の父親が博視のいる課を取りまとめる営業部・部長なことも少なからず関与しているだろう。
総務課の直属の上司に当たる管理本部長ではないとはいえ、総務課長も部長クラスの父親を持つ紗英のことを全く意識しないでいるのは無理みたいだ。
何かにつけてやたらと紗英に対しては甘々査定の課長が、ことさら〝キミの後輩の〟と言うところを強調してきたから。
それに――。
前に少しこの課長と一悶着あって以来、その傾向がやたら強くなったのを感じている天莉だ。
嫌な予感しかしない。
「……分かりました。お引き受けします」
皆まで言われなくても今回も紗英の尻拭いをしろと言うことなのだと瞬時に理解した天莉は、体調不良を身体の奥底へ押しやって課長から差し出された書類を受け取った。
本当は、今にも倒れそうなくらい気分が悪い。
でも……。
生来の面倒見の良さと生真面目な性格が、目の前で弱ったように眉根を寄せる課長を邪険に出来なかったのだ。
「先輩。ホントすみませぇーん。私もぉー、ちゃんと最後までやりたかったんですよぉ? けどぉ……。うぷっ」
上司の前だから一応の体裁だろう。
天莉の前では〝紗英〟な後輩の一人称が、わざとらしく〝私〟になっているのが滑稽に感じられてしまった天莉だ。
そうしたところで間延びした物言いに変化はないので、社会人としてはダメダメな感じなのに気付けないのが残念な子だ。
だが、思わず守ってあげたくなるような、ゆるふわ小動物系の外見のお陰か、課長はデレデレと鼻の下を伸ばしていて咎める気配がない。
天莉は紗英がどんな血統だろうと関係ない、彼女自身のためだと思って、これまで再三口を酸っぱくして注意してきたつもりなのだけれど、一向に直らない――直そうとしない?――様子の紗英の口調に、最近では半ば諦めモードだった。
加えて、つい先日博視を寝取られ、いやらしい本性をむき出しにされた今となっては、この先この後輩が人からどう思われようともうどうでもいいというのが正直なところ。
わざとらしく「うぷっ」と言いながら口元を押さえた紗英に、天莉は『吐きそうなのは私の方なんだけどな?』と思った。
それでも目の前の紗英と違って、天莉にはもう心配してくれる彼氏はいないのだから。
小さく吐息を落とすと、天莉は紗英のやりかけの仕事に取り掛かった。
***
結局二十二時前になってやっと。
ほとんど何も手付かずのままだった紗英の仕事を片付けて、総務課を出た天莉だったのだけれど。
とっくに限界を超えた体調の悪化は、足を一歩踏み出すごとにふらつきを酷くする形で天莉を苛んだ。
天莉のいる課は社屋内の上階の方――七階――に位置していて、ここより上のフロアは八階・重役たちの個室しかない。
さすがに定時を四時間以上を過ぎた時刻ともなれば、社内に人影は見当たらなくて。
課長は天莉に仕事を頼んだ手前、最後までソワソワしていたけれど、正直その様が落ち着かなくて、天莉から声を掛けて先に帰ってもらった。
独り身の自分と違って、課長には妻子がいるから。
家で誰かが待っている以上、そんなに引き留めてはいけないとも思ったのだ。
それに――。
正直課長と二人きりは、別の意味でもイヤだったから。
元気な時ならば、帰りは階段を使うことを心がけていた天莉だったけれど、さすがに今それをしたら真っ逆様に転げ落ちる自信があった。
廊下の壁面を擦るようにしてやっと辿り着いたエレベーターホールで、何とか手探り。ほぼ勘で「▼」ボタンを押して壁にもたれ掛かったままエレベーターがくるのを待って。
ポーンという軽快な電子音とともに開いたドア内へ、壁伝いに何とか乗り込んだ。
社内には、もう自分と警備員くらいしか残っていないと思っていたのに――。
箱の中には一人、とても綺麗に磨かれた手入れの行き届いた革靴の男性が乗っていて、天莉が乗り込むなり怪訝そうにわずかだけ呼吸を乱したのが分かった。
気分の悪さに顔を上げることがままならなかった天莉は、相手の足元と、その人が身に纏う空気だけでそれらを察知したのだけれど。
恐らく相手も、自分以外にまだ人が残っていたことに驚いただけだろう、と思った。
それに――。
(私、幽鬼みたいにふらつきながら乗り込んだもんね。悲鳴を上げられなかっただけマシだったのかも)
そう心の中で自己完結する。
いつもなら、こんな風に誰かと二人きりともなれば、一応の社交辞令として微笑を浮かべて軽く会釈くらいはするのだけれど。残念ながら今そんなことをしたら倒れかねない。
心の中で『無愛想ですみません』と謝って、エレベーター内の手すりに縋り付くようにして何とか座り込むのだけは回避した。
上階から降りてきた箱に先約がいたならば、それは重役の可能性が極めて高い。
そんな単純なことにも気づけないほど、今の天莉は限界だったのだ。
***
いつもなら定時過ぎにエレベーターへ乗り込むと、多かれ少なかれ途中途中で他の社員たちが乗り込んでくるはずの箱の中。
さすがに遅い時間だからだろう。
今日に限っては、気まずいくらいに天莉とその男性以外に新たな人が乗り込んでくる気配はなかった。
結果、最初にお愛想を出来なかった事が、ドヨンと重く天莉の心にのし掛かってくる。
天莉はひとり、ギュッと手すりを握って箱の隅っこで冷や汗を流しながら、早く下に着けばいいと願ったのだけれど。
その願いのたまものだろうか。