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平時よりもとても早く目的階に着いたように感じた。
 扉が開く気配を感じた天莉は、階数表示を確認したいのに気持ち悪さマックスで顔を上げることが出来なくて。
 (そう言えば私、行き先ボタン……)
 そこで、今更のようにそんなことに思い至る。
一階に向かいたいと意思表示をしなかったのに、先に箱へ乗り込んでいた男性は何も聞いてはくれなかったし、自分も立っているのがやっとで操作パネルに触れていなかった。
 (あ、……れ?)
 そこで、天莉は今更のように当たり前のことに気が付いた。
 下へ向かうエレベーターならば、箱内に乗っている可能性があるのは天莉のいた階からだと重役か、あるいは彼らのフロアに用があった人のみ。
 よくよく考えてみれば、この会社に勤め始めて五年。
階下へ向かうとき、エレベーター内に先客がいたことなんて、数えるほどしかなかった。
 
 「あ……」
 思わずつぶやいて開いたドアの先、長々と続く重厚な雰囲気のカーペット敷きの廊下を見た天莉は、思わず小さく声を落としていた。
 この、明らかに他の階のライトな雰囲気のタイルカーペットとは一線を画した、重々しい色調の廊下。
 (やだ、ここ、最上階……!)
 ぼんやりしていたとはいえ、何の用もない一介の平社員が上がってきていいフロアではない。
 そう言えばさっき天莉は、エレベーターホールで手探りに呼び出しボタンを押した。
多分その時、「▼」を押したつもりで、「▲」を押してしまったんだろう。
 
 「――降りないのか?」
 箱の中で真っ青になって固まっている天莉を不審に思ったらしい。
 ピカピカに磨かれた高級そうな革靴を履いた男が、初めて天莉に声をかけてきた。
 重々しさの中にも艶気を含んだ、低く男らしい声に鼓膜を揺らされて、
 「あ、あの、私……」
 ――申し訳ありません! 昇りと降りを間違えて乗り込んでしまいました!
 そう申し開きをすべく手すりを離して顔を上げたと同時、目の前がスーッと暗くなった。
 
 ***
 
 いつだったかも、今日同様紗英が頼まれていた仕事を期日内に終わらせないで、帰ろうとしたことがあった。
 『今夜はどうしても外せない用があるんですぅー。先輩お願いだから助けて下さぁい!』
 そう泣きつかれた天莉は、博視とのデートの約束をドタキャンしてその対応に追われたのだけれど。
 翌日『ありがとぉーございましたぁ。助かりましたぁ』と言いながら、天莉が自分のためにデートをドタキャンしたと知るや否や、紗英が言い放ったのだ。
 『先輩? 助けて頂いたから、紗英、嫌われるのを承知で言いますけどぉー、そんな風に仕事ばっかり優先しちゃってたらぁ、カレシさんに愛想尽かされちゃいますよぉ? 女の子はぁ、お仕事なんかそこそこにしか出来なくてもぉ、紗英みたいに男性を一番にしてあげるくらいの方がモテるんですからぁ。先輩は紗英と違ってもぉーアラサァなんですからぁ、気を付けてないと行き遅れちゃいますよぉ?』
 その時はイラッとはしたものの、博視のことを信じていた天莉だ。
 「忠告ありがとう。でもね、世の中の男性は江根見さんが思ってるような人ばかりじゃないのよ?」
 そう答えたのだけれど――。
 今朝のあの勝ち誇ったような紗英の顔。
 天莉のことを〝余り物〟だと言った、紗英の笑顔と声が頭の中をグルグルして、天莉はギュゥッと下唇を噛んだ。
 
 『ほらねぇ? 紗英が言った通りになっちゃったじゃないですかぁ。先輩が博視をないがしろにするからぁ、博視、紗英と結婚したいって思うようになっちゃったんですよぉ?』
 そうせざるを得ないようにした一因は紗英自身でもあったはずなのに――。
 私が、好き好んでデートをすっぽかしてまで仕事を優先してたんだと思ってたとしたら、大間違いだわ!
 
 言われてもいない幻聴まで聞えてくるようで、天莉は泣きながら叫んでいた。
 
 
 ***
 
 「私だって、叶うものなら今すぐにでも結婚したいわっ!」
 突然響き渡った自分の声にハッとして、天莉は目を覚ました。
 頬を涙が濡らしていて、ミディアムボブの髪の毛の耳元辺りまでもがしっとりと濡れそぼっている。
夢を見ながら馬鹿みたいに泣いていたんだと、無意識に伸ばした指先が濡れたこめかみに触れた途端、胸の奥が苦しくなった。
 頭も、まだクラクラしていたけれど、エレベーターに乗っていた時ほどではないのは、身体を横たえているからだろうか。
 それよりも、今は泣いたせいで頭痛が酷い。
 見慣れない、クリーム色のドット柄ステンレススチール製天井に、丸いシーリングライトが等間隔で点在しているのを思考回路の鈍った頭でぼんやりと眺める。
 恐らくそれだけでは暗いんだろう。
 視線を転じれば、要所要所――例えば大きくて立派な重役机の上や、会議机と椅子が置かれた辺りには吊り下げ型の照明器具があって、他所より明度が上げられているのが分かった。
 そうして、どうやら今自分がいる応接セットのソファー付近はそこまで明るくしなくてもいい場所らしい。付近に追加の照明器具は見当たらなかった。
 (――って、ここ何処⁉︎)
 見るとはなしに、ひとしきり周りを見回した後でそのことに思い至った天莉は、慌てて飛び起きて。
 「あっ!」
 ブランケット代わりにでもされていたのだろうか。
如何にも高級そうなスーツのジャケットが、身体を滑って床へ落ちそうになる。
 空気が動いた瞬間、シトラス系のさわやかさの中に、ほのかなダージリンティの甘さを伴う色気ある香りが漂った。
 わけも分からないまま、天莉が慌ててそのジャケットを押さえようと身を乗り出したらグラリと視界が傾いで、上質な革張り応接ソファーから転落しそうになって。
 「こら、急に動くやつがあるか」
 それと同時、横からスッと伸びてきた逞しい腕に身体を支えられた天莉は、落ちそうになったのを引き留められ、再度ソファーへ横たえられたのだけれど。
 残念ながらジャケットの方は床へ落ちてしまった。
 え?と思う間もなく、頭上から見下ろされる形で視界に飛び込んできた、どこかオリエンタルな雰囲気を漂わせる美丈夫の姿に、ドキッと心臓が飛び跳ねる。
 
 「た、かみ、ね……常、務……!?」
 つぶやいて慌てて身体を起こそうとしたら、視線だけで制されてしまった。
 高嶺尽――。
そんな名を持つ目の前にいるこの男のことを、天莉は知っている。
 日常業務全般を管理する常務取締役。
他の役付き達が五十代以降ばかりと言うなか、叩き上げから三十代半ばという壮年で現在の地位まで昇り詰めていることからも実力のほどが知れる、言わば我が社のホープ。
現場に近い立ち位置で、社員らを指揮することで社長を補佐する、自分たちにとっての最高責任者的存在の男だ。
 実際に話したことはほとんどない雲上人だけれど、恐らく社内で高嶺尽のことを知らない人間はいないだろう。
 そんな尽の、ワイシャツ+ベストにスラックスだけというどこかラフな姿を、天莉は今まで一度も見たことがなかった。
 それはきっと、天莉が尽の上衣を借りてしまっていたからに他ならない。
 床へ落ちた上着を拾い上げて、数回軽く叩いてから、衣擦れの音さえも優雅に羽織った尽の姿を目の端で追いながら、天莉は呆然とそんなことを思う。
 
 すっかり身支度を整えた尽が、メタルフレームの眼鏡越し、猛禽類を彷彿とさせる切れ長の目で探るように天莉を見下ろしてきた。
 
 「……あ、あの……申し訳ありません」
 消え入りそうな声音で告げた謝罪が、尽のスーツを落としてしまったことに対してなのか、急に動いたことを咎められたことに対してなのか、天莉は自分でもよく分からなかった。