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井野匠
さくらぶ
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その日、白川流霊枢治療の宗家、白川驟雨(しゅうう)、即ち、私の父親に呼び出された。
治療室ではなく書院に呼び出されたことで、今回の件が、霊枢治療関係でなく、私的な用件であることが分かる。
私は、内廊下に膝をつき、「翠雨(すいう)、入ります」と断りを入れてから障子を開いた。
驚いたことに、そこには兄である時雨(しぐれ)以外の家族が揃っていた。
特に驚かされたのは、重い気鬱の病を患って東京の大学を辞め、二年間も自宅療養をしていた妹の雨音が、元気な姿を見せていることだ。
雨音には、訊ねたいことが山ほどあったが、口煩い父親を慮って黙って席に着く。
驟雨は、床間を背に屋久杉の一枚板で作られた巨大な座卓を前に座っており、驟雨から見て右手には、雪見障子を背にして母親の京子と妹の雨音が並んで座っている。
床間には、俵屋宗達の作だと伝えられている風神雷神図の掛軸が飾られていた。
雨雲を沸かせ、宿った雨を祓う一族にはお似合いの掛軸だ。
驟雨は、この掛軸を大層気に入っていて、強力な魔除けになるとうそぶいている。
驟雨は私と同じ、作業着である濃紺の作務衣を身に纏っているが、京子は黒地に桔梗をあしらった着物姿で、雨音も鶯色の地味な着物を着ていた。
私は、驟雨から見て左手、母親と妹に向き合う形で腰を下ろした。
雪見障子のガラス部分からは、広大な池泉回遊式庭園の一部が覗いている。
私が庭園の風景から驟雨に目を移すと、それまで黙っていた驟雨が重い口を開いた。
「翠雨。時雨は白川流を破門になった。
そやから、明日から白川流の跡取りはお前や。
せいだいおきばりやす」
私が驚いて口を開く前に、京子から「アナタ!」と鋭い口調で咎められる。
「アナタが、白川流霊枢治療師の長女が邪気を宿したなんて格好悪うて人に言われへん。などと言って、真剣に向き合わなかったから、時雨が代わりに向き合ってくれたのです。
そして、雨音の悲しみに寄り添ったあげくに、雨祓い(あめばらい)の外道である邪法に手を出してしまったのですよ。
それなのに、自分の無責任を棚に上げて、時雨を破門にするだなんて父親失格です!」
すると、驟雨は先ほどまでの威厳に満ちた態度をかなぐり捨てて、眉を下げながら苦しい言い訳をする。
「京子ちゃん、そんなイケズ言わんといてや。
ワシかて時雨を真剣に説得したんやで。
今回、雨音を助けるために邪法に手ぇ出したんはしゃあない、お父ちゃんは目つぶったるさかい、二度と邪法に手ぇ出したらアカンえ。って、優しく言うてやったのに、アイツ、邪法を使い続けるって言い張るんや。
ワシにどうせえっちゅうねん」
しかし、京子は驟雨の泣き言を完全に無視して、「何故、時雨は雨祓いの邪法を使い続けると宣言したのでしょう?」と素朴な疑問を投げ掛けてくる。
その疑問に、驟雨は大きなため息をついてから、仕方ないという態度で答え始めた。
「この世界は、全てが陰(雨)と陽(晴)で出来てる。
これは、人間の体内を流れる気も同じなんや。
体内には、陰(雨)にあたる邪気と、陽(晴)にあたる聖気が有って、どちらも人間には必要なもんやけど、毒気である邪気が増え過ぎると、薬気である聖気を駆逐して魂が病んでしまう。
すると、身体にも悪い影響があらわれるんや。
白川流霊枢治療の雨祓いは、患者の増え過ぎた邪気(雨)を体外に放出させて、それを焼き祓うことで患者を健康にするけど、時雨は、そんな治療は対症療法でしかないて言いよるんや。
邪気(雨)は、怒りや苦しみ、不安や悲しみなんかの陰(雨)の感情から魂魄に痼りが生じて、そこから発生しよる。
そやから、魂魄の痼りを浄化させん限り原因療法にはならへんていうのが時雨の言い分や。
ワシは、魂魄の痼りを触ること自体が、雨祓いの外道で、邪法に当たるんやって、何べん説明しても、それならその治療が外道で、僕の治療が正道です。って、訳の分からんこと言いよるねん。
ホンマ頑固やで。
考えてみ、患者を治療する度に体内に雨を取り込んでたら、治療師は命が幾つ有っても足らんわ」
ここで雨音が、「しかし、その邪法のお陰で私は救われたのです」と言ったので、私と驟雨は驚いた。
「お前、喋れるようになったんか!」
驟雨が驚くのも無理はない。
雨音は実家に戻ってからの二年間、一言も口がきけなかったのだ。
だから、私達は雨音が雨を宿した経緯を知らされていない。
しかし、母親である京子は既に雨音と言葉を交わしているのか、落ち着いた様子で成り行きを見守っている。
「そうか。それなら雨音から事情を聞く方が早いな。
お前が、東京の大学で雨を宿した理由と、時雨が雨祓いの邪法に手ぇ出した経緯を聞かせてくれ」
大きく頷いた雨音は、しばらくどこから話そうかと迷っていたが、落ち着いた様子で訥々と喋り始めたのだ。