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放課後。チャイムは、誰の背筋も動かさなかった。日常が、粛々と“それ”に移るだけだった。
日下部は動けなかった。
すぐ横で、誰かが笑っている。靴を引きずる音。
カバンを片付けるふりをして、教卓を端に寄せる生徒。
教師はとっくに帰った。今日は“当番”の誰かが、鍵を閉めるのだろう。
遥はもう、起きていた。
机から体を起こし、少し伸びをして──自然な仕草のように、足元を見た。
上履きのつま先に、小さく息を吹きかけて拭うように手で撫でた。
小石が入っていたのか、それともただ、癖なのか。
──ただ、それだけの仕草だったのに。
「なにそれ、“準備運動”? やる気満々じゃん」
誰かの声に、いくつかの笑いが重なった。
冗談でも怒鳴り声でもない。
ただの“会話”の延長のように、滑らかにひどい。
遥は振り返らなかった。
けれど、ゆっくりと足を進めて、教室の中央に出た。
誰に命じられたわけでもない。
でも、誰もが“それ”を待っていた。
日下部は、座ったまま視線を逸らせなかった。
遥の背中が、どこか小刻みに揺れていた。
歩くたびに、腰のあたりのシャツが引き攣れて、痛々しく皺を刻んでいた。
あれは──殴られた痕なのか、踏まれたのか、それとも……
誰かが笑いながら、椅子を蹴って場所を空けた。
そこに遥が立つ。
スカートの女子が後ろからささやくように言った。
「はい、今日もちゃんと“お願い”して?」
遥は少しだけ間を置いた。
唇が、何かを飲み込んだように震えた。
けれど──確かに、首を傾け、誰かを見上げ、低く言った。
「……お願いします」
教室が、安堵したように笑った。
まるで、それで“今日も正しく始まった”ことを確認するかのように。
日下部の心臓が、ひとつ鳴った。
“それ”が、遥の声だったこと。
自分のためでも、誰かのためでもなく──ただ、この教室の“ルール”のために出た声だったこと。
(……笑ってるやつらだけじゃない)
そう気づいて、さらに喉が苦しくなった。
見ていないふりをしている者。
苦笑いを貼り付けているだけの者。
何もせず立ち去る者。
そして、黙って“見る”者。
そのどれにも、日下部自身が重なった。
(……見てるだけだ、俺も──)
前に進めば、遥の代わりになれるか?
何かを壊せるか?
“助けたつもり”になるだけじゃないのか?
遥が、うつむいたままボタンに指をかけた。
今まで何度も見てしまった光景。
けれど今日は、ほんの一瞬──遥がこちらを見た気がした。
目が合った。その目は、何も言っていなかった。
でも、言葉より残酷な問いが浮かんでいた。
──「おまえ、また見てるのか?」
日下部の両手が、膝の上で硬く握られていた。