朝は、誰のもとにも平等に訪れる。
七時におれは軽くシャワーを浴び、普段着に着替えてから朝食作りを始めた。瞬時迷った結果、二人分作り始める。彼女も起きてくるかもしれない。
一度も起きてこなかった様子からすると、あのまま一晩眠ったのだろう。
おれは不慣れなソファで眠ったためからだのふしぶしが痛い。
歳だな。
一人暮らしを始めてから他人の気配に敏感になった。キッチンで料理をしながらも廊下からべちべち足音が聞こえてくるのには気づいていた。
機先を制し、おれは「おはよう」と声をかけた。
挨拶を返す彼女はおれと目が合うと、頬を赤らめた。
恥ずかしげで、気まずそうだ。
朝食を作るから顔洗ってきなと言うと、彼女は素直に応じた。会社で見る彼女とはまた違う表情が見られた。つるんと殻を剥いたたまごのように、手応えがあった。寝起きはいつもこんななのかもしれない。
* * *
思えば、人生とは想定外のことだらけだ。
差し向かいで彼女と朝食を食べる機会があるなどとは、想像だにしていなかった。
彼女の下着姿を見られたのは役得だったが。
同時に、心配でもある。相手がおれだから良かったものの、でなければなにをされていてもおかしくない。
「あり。課長……なんか怒ってますか」彼女が、おれの様子に気づいた。
『……きみは、誰に誘われてもほいほいついていく女なのか』
そのことを伝えているうちにおれは、段々腹が立ってきた。なにに対して怒っているのか分からないが、要するに彼女に対して抱え込んでいたもろもろの感情が、一気に雪崩れ込んできたのだと思う。
勝手に運んでおいて怒るとか逆ギレもいいとこだ。
しかし、おれの理性がぶっ飛んでいたら、どうなっていたか分からない。
男なら寿司屋に置き去りにするよりも、持ち帰って手を出す可能性のほうが高い。
おれの説教を受けて、彼女は神妙な顔をして、朝食を食べだした。
朝食を食べ終えると、彼女はおれに詫び、すぐに出ていこうとする。
――ちょっと待った。
おれは、なにもきみに伝えられちゃいない。
三年間、ずっと好きだったことも。
こころを閉ざす様子を見てなんとかしたいと思っていたことも。
一目惚れだったことも。
彼女の手は、小さくて柔らかかった。
テーブルに置いたままの食器を下げようとした彼女。彼女の手に自分の手を重ねるおれの突然の行動に戸惑っているのが伝わる。
第一、おれの目すら見ようとしない。
「待て。さっきは言いすぎた。すまん……」
同時に、彼女に触れることが悪いことだと感じた。「い、え、ぜんぜん……」
しかし、おれは離すつもりは、なかった。
「きみは――
ガードが固いくせしてそのくせひとを信じやすいところがある。だから、
心配なんだ」
かっ、と顔を赤くした彼女。
「……課長に心配される筋合いなんかありませんけど」
どうやら、怒らせたらしい。
「き、のうは……課長が美味しい寿司食べさせてくれるって聞いて。寿司って聞くだけで超テンションあがっちゃってなのにお刺身のとこまでしか記憶なくって次に気がついたらベッドのうえっていう超間抜け女ですよすみませんでした本当に」
おれは驚いて彼女の顔を見あげた。「……タクシー乗ったり、ベッドに寝たり、自分から服脱いだのとか覚えてないのか」
「……覚えてません。ぜんぜん、覚えてません!」
恥ずかしさゆえだろう、顔を押さえる彼女。
テーブルから手を下ろし、膝に添え、大きく頭を下げる。
「……本当に、申し訳ありませんでした。一連のことはわたしの黒歴史として忘却の彼方へと捨ててください。来週からまた、よろしくお願いします」
また、こころを閉ざす。
この機会を逃したら彼女に触れる機会など一生見つからない。
椅子から立ち上がり、出ていこうとする彼女の腕を、たまらず掴んだ。
振り向きざまに彼女は、
「ちょ、セクハラで訴えますよ!」
「おれはきみを離したくない!」
部屋に大声が響いた。
しかし、止められない。止めるつもりもなかった。
「やっと……捕まえたんだ。とにかくおれに……チャンスを、くれ」
感情が高ぶるあまり視界が滲んで見えた。
驚きから冷静へと感情が移り変わるのをその目に見た。
頭の切れる彼女らしく、対応は迅速だった。
「ええと課長。さっきから会話のロジックが通ってなくって分かりません。ちゃんとわたしに分かるように説明してください。話が終わるまで――
わたし、どこにも行きませんから」
* * *
おれは全てを話した。
一目惚れして三年間、この日を待っていたことを。
「きみになにがあったのか話したくなければ話さなくてもいい。でも、もし。
ひとりで苦しんでいるんだったら、おれが力になりたい。
殺人と法に触れること以外ならおれはきみのためになんだってできる。明日月に行きたいっつわれても、なんとかしてみせるよ」
おれの隣でソファに座る彼女は自分の膝頭を掴み、考えこんでいる。そのうちに秘めるもの。その小さな肩に背負い込んでいるものを教えて欲しいとこころから願って、その回答を待つ……。
彼女に本音を明かして欲しいのなら、おれが明かさなければならない。
「桐島。おれ……」おれは切り出した。この際、嘘はなしだな、と付け足しつつ。
「はっきり言う。
きみがおれを利用してくれても、構わないとすら思っている。
もうおれは……待てない。
きみの、こころが、欲しい」
すがるような表情。迷子になった子どもが母親を探すような、心許ない瞳。この人間を、信頼していいのかそうでないのか、……迷いのいろすら伺える。
だがおれは彼女を紛れも無い、女として見ている。
身も心もすべてが欲しいと、思っている……。
「欲を言えば、身体もね。ごめん、男だから……」
おれの本音を受けて、すこしの間を置き、彼女が口を開く。
「課長、わたし……」
おれは、目で続きを促した。焦らせてはいけない。
ゆっくりと、彼女が自分から開くのを待とうと、こころに決めた。
「……『寂しい』けど、
『怖い』んです」
* * *
見知らぬ人間に対して、明確な殺意を抱く。そんなのは、人生初めての経験だった。
「……笑えますよね」と彼女は言うものの、頬が引きつっていて、こころの傷が深いのは、見るからに明らかだった。
彼女は自虐的に笑うと、涙をこぼした。それを見て、いたたまれない気持ちになった。
明かしてくれたことへの嬉しさなんかよりも、過去の傷を、おれのせいで掘り返したことへの後悔で、いっぱいだった。ならば――
慰めてあげたい。
助けてあげたい。「辛かったな」
こういうときにどういう言葉をかけるのが正解なのか、おれにはよく分からない、だが。
誠心誠意で向き合いたい、と思った。
おれは、勇気を出して、彼女の頭に触れた。彼女の涙の溜まった瞳が揺れる。
「……話してくれて、ありがとう。
きみはもう、ひとりじゃない」
課長、と言う彼女の声は震えていた。
「過去の傷に苦しめられるためにきみは生きているんじゃない。
幸せになるんだ。
おれと一緒に沢山笑おう。
うまいものも食おう。映画館でポップコーン食って腹抱えて笑おう。
だから莉子(りこ)――」
おれは、彼女の髪を撫でる手を止め、勇気を振り絞った。
「おれを、好きに、なって」
ぼろぼろと涙があふれる。いますぐ、抱きしめたい。
その衝動をぐっとこらえ、おれは彼女に笑いかけた。「そろそろ課長ってのはやめようよ。おれの名前、知ってるだろ」
「遼一、さ……」
「莉子」
もう、待てない。
おれは、この手で彼女を抱きしめに行った。
小さくて、やわらかなからだだった。華奢で、強く抱きしめたら折れちまうんじゃないかと思うくらい……。
彼女の鼓動は速く、そしておれは震えていた。迷惑じゃないんだろうか、そんな悲観的な予測も働いたが。
背中に、ぬくもりを感じた。彼女の手だ。おれを受け入れてくれている……。
彼女の意志を信じ、おれは彼女を抱きしめる手にすこしだけ力を込めた。
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