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ケマルと俺は歩きだした。カートの小径の車輪が、足元でカラカラ鳴る。
「あの店は、従業員を壁の中から調達してくるんだ」とケマルは言った「きっと従業員は幸せにはなれないと思う。でも、欲しい物は手に入る」
両手のハンドルの間に、左の先が破れかけたスニーカーが見える。スニーカーは左右交互に動く。大理石の舗装路は種々の模様が組み合わさっているが、継ぎ目が見えない。
「なあクタイ。そんな下ばかり向いてて、面白いか」とケマルが言う。だって転んだら困るじゃないか、気をつけないと障害物にぶつかって足を引っ掛けたり、誰かから文句を言われたりすると困る、君も気をつけた方がいいと俺はアドバイスした。
「でも、つまずくようなものは何もないじゃないか」と彼は言う。見渡すと、確かにそのようだ。靴屋は、展示スペースよりも通路の方が広い。これで、やってけるのだろうか。在庫はちゃんとあるのだろうか。壁向こうの靴屋は、違う。山のように積まれた箱や見本の靴の間に、身体を横にしないと通れない通路、いや、溝と言った方がいい、が辛うじて付着している。
「こっちの国では、どこも物はおきたがらないね」とケマルは言った。どうしてだと聞くと、彼は言った。「物が増えれば増えるほど、古いものが下になって、奥になって、見えなくなって、最後には意識から消える。何がどこに何のために置いてあるかが分からなる。必要なものが必要なときに出てこなくなる。そうすると、使わないものまで置いとくことになる。必要以上に場所を取って、通路が狭くなる。人がぶつかりあう。互いに一方通行になる。争う。ストレス。ルールが増える。掃除する場所も増える。ちょっとしたことをやるのに、やたらと時間がかかる。足をひっかけてつまずいて、壊れる、散らばる、混乱する。元のように直すのに時間がかかる。でも元のように直すので、また誰かがつまずく」
カートを転がす。
壁の向こうでは、とりあえず手に入るものは何でも取っておけ、あとでいつか使うときがくる「かも」しれないと教わってきた。物も、知識も、たくさん持っている人が「偉い人」と呼ばれている。飽和水蒸気量。光の屈折。電力計算。集合。確率。方程式。切片と傾き。三角関数。年号。人名。地名。気候の種類。主な産物。平均降水量。気圧と前線。乾湿計。上院と下院の定数。選挙権と被選挙権の最低年齢。憲法の前文。文学史。古典文法。英単語。店の奥、一番下で構わない。将来使うかどうかなんて、とりあえず気にするな。これとあれを結ぶ通路なんてない。これはこれ。あれはあれ。通路はあっても、細く狭い。実は、物と物の間に生まれた溝に過ぎない。
「物質至上主義は、大変だな」
ケマルは城壁のある方向を振り返って、言った。カートを出口に置き、バザールを出た。