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最高!。
「夏というのは、実体がないのよ」
理央は、溶けかけたアイスキャンディーの棒を弄びながら言った。屋上に吹き抜ける風は、熱を帯びて肌にまとわりつく。
「実体がない?」
「ええ。私たちが今見ているこの青空も、肌で感じている熱も、すべては『今、ここ』という瞬間が作り出す残像に過ぎないわ。過ぎ去った瞬間に、それは概念としての『夏』にすり替わってしまう」
僕は彼女の横顔を見た。陽炎の向こう側で、彼女の存在すらも不確かな輪郭を帯びているように見えた。
世の中には、あらかじめ用意された物語が溢れている。映画や小説の中の青春は、あまりに整然としていて、苦悩すらも美しくパッケージ化されている。だが、僕たちが今この瞬間、喉の渇きを覚え、将来への漠然とした不安に胸を焼かれている事実は、それら既製の物語とは決定的に異なっている。
「私たちは、観客席に座っているわけじゃない」
理央が言葉を継ぐ。
「この残酷なまでの光の中に、主体として放り込まれている。誰の人生でもない、私たちがこの瞬間を『生きている』という証明。それが、この暑さの本質なんじゃないかな」
彼女の言う通りだ。僕たちは、いつか終わることを前提とした「有限の時間」の中にいる。
時間は残酷に、そして平等に流れる。しかし、その流れに抗うように、僕たちは声を上げ、走り、誰かを求める。その主観的な衝動こそが、客観的な時間を「青春」という特別なフェーズへと昇華させるのだ。
「ねえ、この青さは、いつまで続くと思う?」
僕の問いに、理央は少しだけ黙ってから、空を指差した。
「永遠じゃないから、価値があるのよ。私たちは、いつかこの夏を忘れるかもしれない。でも、この瞬間に『確かにここにいた』という事実だけは、世界の構造の一部として残り続けるわ」
遠くで部活動の掛け声が響く。それは、今という瞬間を必死に肯定しようとする、生の咆哮のように聞こえた。
運命などという決定論に身を委ねるのではない。
僕たちは、不確かな偶然の連続体の中で、自らの意志によってこの「青」を選び取っている。
たとえ、秋の風がこの熱を奪い去ったとしても。
この夏を構成した一粒一粒の光は、僕たちの実存の一部となって、永遠に消えることはないのだ。