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イタリアが連絡も無しにうちに遊びに来たのは、いつも通りのことであった。まるで実家へ帰って来るかのように、能天気な顔で手ぶらのまま上がり込んできたのが夕方のこと。イタリアの衣服がタンスを侵食しだしたのは今からだともう随分と前のことで、その度に同居中の兄が大はしゃぎするのも最早恒例の光景となっており、数時間前までそれはそれは賑やかな時間を過ごしていたものだ。 三月も中旬。春の兆しがどことなく見えてきたとは言え、国内はまだ冬の名残をたっぷりと風の中に残している。日本は既に暖房器具を片付けたと言っていたが、曇りの多い我が国ではまだまだ厚い布団が必須。そのため、イタリアが一緒のベッドに潜り込んでくるのも至極当然のことであった。
いつも通りだったのだ。
夜が更け、空が暗闇に包まれるまで。
*
国中がすっかり寝静まった深夜。
心地よい眠りに就いていたドイツは、何かに呼び寄せられるように突然目を覚ました。
(………?)
特に何が聞こえたわけでも、何者かの気配を感じたわけでもない。一昔前なら少しの物音で目を覚ましていたものだが、今は戦争の無い平穏な時代。近年では、あの頃のような目覚め方はほとんど無かったはずなのだが……そう訝しげに思いつつも、息を潜め、辺りの気配を耳だけで探る。まだ微かに揺蕩う眠気。そんな静寂の中で、張り詰めた琴線を揺らしたのは──
「……ッ、うえっ……えぐ……」
小さな泣き声。
覚醒した意識は、すぐにそれがイタリアのものだと感じ取らせた。
(イタリア……?)
嗚咽に混じる啜り泣き。隣から紡がれる呻き声は、悪夢に悶える子供のように暗く空間を支配する。恐ろしい悪魔に取り憑かれたかのように。底の無い汚濁に呑み込まれるかのように。悲痛な声が、暗闇の中で鼓膜を震わせる。まだ微かに蕩けた脳内でも、その様子はハッキリと認識できて。
(魘されているのか……)
毛布の中で上下する胸と、苦しそうな面持ちのまま荒ぐ呼吸。いつも能天気で緩み切った表情しか見せない彼のあまりにも沈痛なその様子に、睡眠で凪いでいたはずの胸の奥がザワリと怪しく蠢きだす。ハァハァと止め処ないイタリアの呼吸と呻き声。その唇が紡ぎ出す言葉は、どこか幼稚で拙く──
「いやだよ……行かないでよ……」
誰かを求める、幼い子供のようであった。
小さな、意識しなければ聞き逃してしまいそうなほどに弱々しい声。儚い吐息に混じる微かな音と苦しげに歪む見慣れた面。途切れ途切れに零される言葉は、あまりにも強い感情をその中に孕んでいて。
「ぼくを置いていかないで……!」
それは紛れもなく、夢の中で生まれ落ちた叫び声であった。
微睡みの中、だんだん強くなっていく言葉。助けを求め、誰かの背を追い縋るかのような。今までに見たことの無い、哀しみに四肢を捕らわれたイタリアの姿。一体どんな悪夢を見ているのか──そんな疑念、激しい胸の騒めきの中でとうに消え去っていて。
「おいイタリア、大丈夫か……?」
焦る気持ちと共に、声を潜めるようにしてその名を呼んでいた。まだ暖かいとは言い難い三月の気候。毛布から出した腕を撫でる空気はヒヤリと冷たく、温もった肌を気味悪く震わせる。夜闇に慣れた目が捉えるのはイタリアの瞳から枕へと伝う一筋の涙。はらはらと止め処なく溢れ出る雫が、布の上に模様を描いていく。
ただ事ではない。そう確信すると、ドイツはその名をより一層強く呼びながら、布団の膨らみをゆさゆさと大きく揺さぶったのだった。
「イタリア!目を覚ませイタリア!」
耳元で、現実へと呼び戻すように。その表情の機微を伺うよう、イタリアの顔を正面に捉えながら呼び続ける。かつて戦場でうたた寝をしていた時はよくこうして起こしていたが、今は状況が違う。戦争も無ければ大きな傷を負うことも無い現代。それなのに……今バクバクと脈打つ心臓は、どの戦場に居た時よりも激しい動悸を刻んでいて。
「イタリア!!おいイタリア!!」
このまま、目の前から居なくなってしまうのではないか。
そんな言いようの無い不安に駆られた刹那。
「……っ」
パチリと、涙を溜めた両目が開かれた。
かち合う目と目。開かれた瞳はハッキリと自分の姿を捉えており、月明かりを反射し淡く艶めく。静まる呻き声。悪夢からの解放。その普段あまり見ることの無いハチミツ色の瞳を正面に捉えながら、静寂の中でホッと胸を撫でおろす。
「イタリア……」
良かった。
そう安堵の息を漏らした、その時だった。
「神聖ローマ!!」
「──ッ!?」
その声が鼓膜を貫いたと同時。ガバリと、強く抱き締められていた。
突然の出来事に狼狽する。一体何が起こったのか。そんなことすら分からない。首に回された細腕は力強く、それでいてスルリと抜け出せそうなほどに弱々しい。
それでも、抜け出すことなど出来なくて。
「イ、イタリア!?」
肩口に埋められたイタリアの顔。そこから零される彼の声が、あまりにも歓喜に満ちていたから。間違いなく“イタリア”の声だったから。何が何だか分からないまま、時計の秒針だけが進んでいく。たった一人、暗闇の中にドイツだけを残して。
「よかった……よかったよぉ……!」
喉が引き攣って声が出ない。密着する体温。耳元を擽る淡い吐息。絶句するドイツを抱き締めながら、小さな声は紡がれ続ける。
「……怖い夢を見たの。神聖ローマが、いなくなっちゃう夢……」
熱い涙が、冷たくなったドイツの肩を少しずつ少しずつ濡らしていく。暗闇の中、やけに大きく耳に響くコチコチという時計の音。いつも以上にたどたどしいイタリアの喋りは、寝惚けているというよりはどこか幼い子供のようで──そして、確信する。
イタリアは、自分を誰かと勘違いしている。
「……夢で……よかっ……た……」
そう、最後に小さく言葉を零すと。イタリアはまるで夜闇に溶け入るかのように、寝息と共に意識を手放した。再びベッドに沈み込む貧相な身体。すやすやと眠る面は、間違いなくいつもの彼のもので。
「…………」
見慣れた寝顔を見下ろしたまま、ただその場に座り尽くしていた。
カーテンの隙間、窓から射し込む月明かりに照らされる寝室。
今、現実に起こった出来事。
呆然と何を言うことも無く、ただイタリアの紡いだ言葉だけが脳内をグルグルと回っていて。
“いやだよ”
“置いていかないで”
“神聖ローマ”
その言葉から推測できることは、ただ一つ。
(イタリアは……かつての神聖ローマ帝国と知り合いだった?)
その存在は、名前だけなら知っていた。
神聖ローマ帝国。かつてこの地を統べていた、中世に栄えた帝国。イタリアはオーストリアの元に従事していたので、彼と出会っていたことは確実だろう。もしかすると、ずっと前から知り合っていたのかもしれない。自分が生まれる前の歴史の流れは本で大方勉強しているので、そう推測するのは容易い。
しかし──
(何故こいつは……俺と彼を見間違えた?)
あの時、ハッキリと目が合った。真夜中とは言え、今日は月も明るく室内の見通しもかなり良い。その瞳に映った自分の姿さえ、確認できる程だったのに。
(お前は一体、誰を見ていた……?)
すよすよと、無防備な寝顔を晒したまま零れ出る寝息。先ほどまでの苦悶の表情はもうそこには浮かんでいない。それなのに、何故だろう。
胸の奥が、ズキズキと切なく痛んでいる。
正体不明の痛み。その疼きに眉を顰めつつ、本で得た知識を反芻する。書物で学んだ歴史、兄達から教えられた過去。その記憶が間違っていなければ──
(神聖ローマ帝国は……とうの昔に死んでいる)
彼の名が地図の上から消えた後。彼自身がどうなったのかは、どの書物にも書かれていなかった。
何も分からないのだ。
ただ、あのイタリアの涙を見て感じ取ったのは、大切な存在を失った哀しみに満ち溢れた記憶。
お前が見たものは、悪夢じゃない。
取り返しのつかない“過去”だ。
(イタリア……)
この男にも、あったのだろうか。
兄の名が地図の上から完全に消失した日、抗いきれない不安に押し潰され、誰も居ない空間で一人涙を流した自分のように、孤独と悔恨に苛まれた日々が。戦場に立つこと以上の恐怖に震えた日々が。そんなイタリア、自分は知らない。
自分を見ながら、自分ではない誰かを見ていたイタリアの姿。あの喜びに満ちた微笑みと、慈愛に溢れた声。あまりにも純潔で儚い想い。
自分の知らない時代を生きたイタリアの、知る由も無い過去。その寝顔は、間違いなく自分のよく知るイタリアのものなのに──
「なあ、イタリア……」
どうしてこんなに、胸が痛む?