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カーテン越しの朝日が、まだぼんやりと部屋を照らしていた。昨夜の記憶が、夢みたいに遠くて、それでも肌の熱だけが残っている。
隣で寝息を立てる彼を見ながら、胸の奥が静かに痛んだ。
――もう、終わりにしなきゃ。
そう思うのに、彼の腕の重さを感じると、動けなかった。
「……ちかちゃん」
寝ぼけた声。
「もうちょっと、そばにいて」
腕を伸ばされ、そのまま抱き寄せられる。
彼の体温が、やけに近い。
「もとき、さん、今日お仕事は……?」
「んっ……午後から打ち合わせ……」
唇がかすかに歪む。まだ眠そうな声。
しばらくの沈黙。
部屋には、二人の呼吸の音だけが残る。
「……ねえ、LINE交換しよ。」
「え?」
「番号だけだと不便でしょ。電話かけて“来て”って言うのも、なんか味気ないし。」
彼がゆっくりと起き上がり、そばに置いたコートのポケットからスマホを取り出す。
「ちかちゃん、カバン触るねー。」
そう言って、私のカバンからもスマホを取り出した。
そしてベッドの縁に腰を下ろし、指先で画面を操作する。
差し出されたスマホには、QRコードが映っていた。
――ほんの少し、迷った。
でも、指が勝手に動いた。
“今日で終わりにしましょう”と告げようとしていた自分が、
どこか遠くにいるような気がした。
登録した瞬間、彼が小さく笑う。
「ね、これでいつでも話せるね。」
――その声は、優しいのに。
まるで、命令のように聞こえた。
「ちかちゃん、昨日の夜より顔色いい。よかった。」
そう言いながら、彼の腕が自然にまわる。
また抱きしめられて、息が止まった。
「……っ」
「疲れてたら、可愛い顔がもったいないよ?」
耳もとすれすれの距離で、甘く囁かれる。
低くて、柔らかくて、心臓をくすぐるような声。
「揶揄わないで、くださいっ……」
顔をそむけようとしたのに、顎をそっと指で持ち上げられる。
「ほんとのことなんだけどなぁ……」
微笑んだ唇が、すぐ近くにあった。
「ちかちゃん、無理しちゃだめだよ?
僕、心配しちゃうから……」
「……はい。ありがとうございます……」
彼の手が、髪をひと撫でして離れる。
それだけなのに、胸の奥がひどく痛かった。
支度を済ませ、二人で部屋を出る時間が近づく。
今日はいつものように勝手に先に出ていくこともなく、
彼がゆっくりと身支度を整えている。
部屋を出る直前、
私がドアノブに手をかけたそのタイミングで、
彼の腕がふいに私の体を引き寄せる。
「ねえ、連絡するから、ちゃんと返してね?」
耳元でそっと囁かれる。
その声は、優しいけれど、逃がさない鎖みたいだった。
「無視されたら、僕、悲しくなっちゃうから……」
私が返事をする前に、
彼の腕の力がほんの少し強くなる。
「ちかちゃん、僕のこと、好きだもんね?」
“好きだ”じゃなくて、“好きだよね?”
まるで確認の形で、首に細い糸を巻かれていくみたいだった。
本当は、ずっと“好きだった”――でも今のこの気持ちは、もう自分でもわからなかった。
“好き”なのか、“諦め”なのか、“ただ逆らえないだけ”なのか――
どれでもない、全部な気もした。
胸の奥が、苦しくて痛い。
「……はい」
それしか言えなかった。
彼は満足げに、ふっと笑って私を解放する。
「じゃあ、また連絡するね。」
そう言って、彼は先に廊下へ出ていった。
私はしばらくその場に立ち尽くすことしかできなかった。
秋風に頬を撫でられながら、ビジネスホテルを後にする。
空は高く澄んでいるのに、胸の奥はずっと重いまま。
人の流れにまぎれ、何も考えずに歩いてみても、気分はどうしても晴れなかった。
お昼でもどこかで食べて帰ろう。
そう思ってスマホを取り出した、その瞬間――
通知が一件、届いていた。
『さっきはありがとう
気をつけて帰ってね』
――ずるい。
そんな風に、優しい言葉ばかりくれるくせに。
このまま返事をしたら、またきっと、
終わらない。
でも――
指先が、震えて動く。
返さなきゃいいだけなのに。
そう思いながらも、
『こちらこそ、ありがとうございました。』
気づけば画面に指を走らせていた。
また、きっと終われなくなる。
でも――
彼の体温と、甘い声。
その余韻だけが、どうしようもなく胸の奥に残っていた。
彼からのLINEは、毎朝「おはよう」と、夜には「おやすみ」が必ず届く。
「今日はレコーディング」だとか、「メンバーと遊びに行く」だとか、
さりげない予定を伝えてくる日もあれば、挨拶だけで終わる日もある。
やりとりが積み重なるたびに、心のどこかが、また静かに縛られていく気がした。
翌週、水曜日の夕方。
スマホに新着メッセージが届く。
『土曜日の夕方から、会えないかな?』
通知の数字が消せず、スマホを伏せたまま一日が過ぎる。
――どうしよう。返事をしたら、また終われなくなる気がした。
だけど、“返さない”という選択肢は、なぜか最初から持てなかった。
木曜の夜、21時過ぎ。
静かな部屋で、スマホの着信音が鳴る。
表示された名前――もとき。
「ちかちゃん? 今、話せる?」
「はい……家なので、大丈夫です」
「LINE見てくれた?」
「……いや、ごめんなさい。忙しくて、まだ見てなくて……」
嘘だった。
通知が気になって、何度も画面を見返していたのに。
「そっか。でさ、土曜日、夕方から会えない?」
小さく息を呑む。
「……会いたくないって言ったら、どうしますか?」
一拍の沈黙。
その向こうで、柔らかく笑う声が落ちてくる。
「んー……それは困っちゃうなあ」
ふざけているようで、どこか逃げられない、重さが滲む。
「ちかちゃん、僕のこと嫌い?」
「……嫌いじゃ、ないです」
気づいたら、すぐに否定していた。
ここで否定しなければ、すべてが終わってしまう気がした。
「なら、いいじゃん。会おうよ」
圧でも命令でもなく、
ただ“当たり前”みたいに――。
「……はい」
小さな声で、返事をするしかなかった。
胸の奥が、また静かに締めつけられる。
電話を切ったあと、すぐにLINEが届く。
『電話、ありがと。遅くにごめんね。
いつもの場所で。部屋と時間はまた連絡するね。』
返さなきゃいけない気がして、
『こちらこそ、見てなくてすみません。わかりました。』
とだけ返す。
そのたび、思考がひとつずつ縛られていく。
金曜日。
朝は、また「おはよう」のメッセージが届く。
「おはようございます」とだけ返す。
彼は今日、レコーディングらしい。
「頑張ってください」と送ると、
「ありがとう」とだけ返事がきた。
仕事中も、つい何度もスマホを見てしまう。
夕方になって、ふたたびLINEが届く。
『明日20時でいい?
いつものホテルの510号室で。』
“はい”とだけ返す。
その夜、ベッドに入っても眠れなかった。
明日会えば、また終われなくなる。
今度こそ断れたらいいのに。
でも、あの声も、あの体温も、全部忘れられない。
天井を見つめたまま、
「終わりにしたい」のか、「終わらせたくない」のか――
自分でももう、分からなくなっていく。
結局、浅い眠りのまま朝を迎えた。
土曜日。
窓の外は、どこまでも晴れていた。
それだけが、現実の重さを際立たせる。
いつも通り、休日のルーティンをこなす。
掃除、洗濯、買い出し……気がつけば、もう夕方。
“準備しなきゃ”。
このまま、調子が悪いとでも言って逃げることだってできるのに。
それでも、シャワーを浴びて、髪を乾かし、服を選び、化粧をする。
考えれば考えるほど、自分が分からなくなる。
だから何も考えず、ただ機械的に支度を進めていく。