コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「ちい! ちい! どこにいるんだ!」
興奮して捜し回っている僕に、上の方からちいの声がした。
「まるちゃ~ん、ここだよ。上見てよ」
見上げると、リビングの横のキッチンテーブルの上から、ちいのにっこり笑った顔がこちらを向いていた。
「なんだ、そんな所にいたんだ」
僕は、ほっとしたと同時に、なんだか拍子抜けした。
何かとんでもないことが起こっているんじゃないかと、血相変えてすっ飛んできたというのに。
まだ心臓がバクバクいってる。
「なんだ、驚くじゃないか。いきなりそんな大声出して。
何が起こったのかと思って、大急ぎで来たんだぞ! いったい何やってんだよ。そんな所で」
拍子抜けしたら急に腹が立ってきた。僕はムッとした顔を上に向けた。
「まあまあ、まるちゃん、そんなに怒らないでよ。あのね、僕良い物見つけんだ」
ちいはキッチンテーブルの奥の方にいるようで、声だけが上から聞こえてくる。
「あのね、れれがね、僕たちのおやつ、ここに出しっぱなしにしてるんだ。今そこに落とすからね。
れれはさっき出かけて行ったから、いないうちに食べようよ。今ならお腹いっぱい好きなだけ食べられるよ」
そうか、れれは、おやつを戸棚にしまい忘れたんだな。
実は僕たちのご飯って、人間と違ってかなりシンプルなんだ。
人間の場合は、朝昼晩といろんなメニューを楽しんでいるみたいだけど、僕たちのご飯はスピードと合
理性がモットーなんだ。
だから同じ味のカリカリご飯を、同じ量、同じお皿で食べている。
だけど、それだけではさすがに僕達も飽きてくる。
それで、猫用おやつなるものが登場したわけなんだけど、いつものカリカリご飯と違って、とっても美味しいんだ、そのおや
つって。
人間の食べ物も 同じだと思うけど、たくさん食べると体に良くないものって、実においしかったりするよね。
だから一度でいいから体のことはちょっとおいといて、お腹いっぱい好きなだけおやつを食べたいと思っていた。
「よいしょ! こらしょ! 」
テーブルの上から、ちいの元気なかけ声が聞こえてくる。下からは見えないが、ちいがおやつの袋を押して、テーブルの端ま
で移動させようとしているのがわかった。
そうなんだ。このおやつは、とっても大きな袋に入っていて、ものすごく重いんだ。
たしか、ちいより大きな袋に入っていて、ちいより重いはずだよ。
僕は、ちいの優しさに、胸が熱くなった。だって、ちいがキッチンテーブルの上でひとりで食べようと思えば、簡単なことな
のに、ちいは僕と一緒に食べようとして、自分の体より大きな袋に体当たりしてるんだ。ゼイゼイという息が、ガサガサとい
うおやつの音に混じって聞こえてくる。
「まるちゃんが一番で、れれが二番」などと言われ、うじうじと涙にくれてたさっきまでの僕は、一体どこに行ったやら。お
やつの袋が落とされるのを、今か今かとドキドキしながら待っている。
「まるちゃん、ちょっと待ってね。ここには、ガスレンジがあったり、コーヒーメーカーがあったりしていて、障害物だらけ
なんだ。あ、またつっかえてしまった」
「おい、ちい、大丈夫か! 」
テーブルの奥の、姿のまだ見えないちいに向かって叫んだ。
「わぁ、今度はマグカップにぶつかってしまった」
コトッと、カップの倒れる音がしたかと思うと、れれ夫婦がいつも美味しそうに飲んでいる、コーヒーのまずそうな香りが漂
ってきた。
さっきからずっとテーブルの上を見上げていた僕は、思わず後ずさりをした。
「わぁ、カップの中にコーヒーが残ってたんじゃないか! 」
ちいの甲高い声が、コーヒーの香りに混ざった。
ーうわっ、イヤな匂い!
僕たち猫は、コーヒーと柑橘類の匂いが大嫌いなんだ。
「ちい、大丈夫か?」
ずっとテーブルを見上げていた僕は、首が痛くなってきた。
「ちい、もう無理しなくて良いよ。ありがとう。ちいが、そこでひとり好きなだけ食べればいいよ。そんな重い物、ちいがど
んなに押したってなかなか動かないだろう。もう、僕のことはいいから、そこでひとり食べて良いよ。それより、早くしない
と、れれが帰ってくるからね」
僕は、キッチンテーブルの上のコーヒーの海の向こうにいるちいに向かって叫んだ。
「まるちゃん大丈夫。もうちょっとだ。よいしょ! ほら、端っこまで来たよ」
ついに、おやつの袋の端が、見えてきた。それは、だんだん大きくなって、テーブルの端から今にも落ちそうになってきた。
僕は大急ぎで横に移動した。
「さあ、行くよ~」
僕の体ほどのでかい袋が、地響きを立てて落ちてきたかと思うと、その衝撃で運良く袋の口が開いてくれた。そして
「さあ、どうぞ! ご自由に好きなだけお食べくださいよ!」と言わんばかりに、辺り一面おやつの海が広がった。
すごい! と、思わず感嘆の声をあげた僕の横に、汗びっしょりになったちいが、飛び降りた。
「お待たせ、まるちゃん! さあ、食べよう!」
大きな歓声と共に、僕らはおやつの海に体ごとザブンと飛び込み、思い切りその中に顔をうずめた。
ー美味しい!
僕たちは、夢中になって、おやつを頬張った。幸せを分かち合うって、こういう事なんだ、なんて思いながら。
外にいた時は、こんな風に誰かと食べ物を分かち合うなんて、考えたこともなかった。
同じノラ猫集団の仲間の中には、もちろん気の合うやつもいたけれど、食べ物を分け合ったなんて覚えはない。正直、自分が
生きるために食べることが精一杯だった。皆が、そうしてたし、そうするものだと思っ ていた。
唯一の例外と言えば、それは、まだゴミ箱のあさり方さえ知らない赤ちゃん猫が、うろちょろしているのを見つけた時だ。
さすがにほっとく訳にもいかないから、その時は、たとえ苦労して取って来た食べ物でも、「しょうがないなぁ」と言いなが
ら分けてやったものさ。
だけど、それは例外中の例外だったし、しゅっちゅうあったわけでもない。
とにかくあの頃は、まさに毎日が食べ物の奪い合いだった。
「あ、れれが帰って来た! 」
僕たちの耳が、一斉にドアの方を向いた。
玄関ドアの向こうに、バッグの中を引っ掻きまわしながらドアの鍵を探しているれれがいる。
僕たちはあわてて食器棚の陰に隠れた。
あ、どうして家の中にいる僕たちに、玄関ドアの向こうにいるれれの様子がわかるんだって思ったでしょ? それは僕たち
の、この素晴らしく発達した耳のお陰なんだ。
これもノラ猫集会で習ったことだけど、猫の聴力は犬の二倍、人間の四倍も発達しているんだって。すごいでしょ。それだけ
じゃなくて、この耳には音のする方向に自動的に向いてくれる、というサービスまでついているんだ。
―ああ、やっとれれがバッグの底から鍵を取り出したようだ。
玄関からまっすぐにこちらに近づいている。れれ、何て言うかなぁ。
リビングのドアが開き、スリッパの音が止まった。れれの目は台所の床一面に散らばったおやつの袋に釘付けになっている。
「○△×!」と叫んだあと、キッチンテーブルいっぱいに広がったコーヒーを丁寧に拭き取り、床にばらまかれているおやつ
を、これまた丁寧に埃を拭き取りながら拾い集め、ゆっくりとおやつの袋に戻していった。
それから食器棚の陰にいる僕たちに向かって、「○△×」と言った後、おやつの袋を大切そうに戸棚の奥にしまい込み、そのま
ま部屋を出て行った。
「ねえ、れれ何て言ったの?」
「もう当分おやつは無しよだって」
ぱんぱんに膨らんだお腹をさすりながら、やっぱりそうかと思った。
僕は、ちいの額に自分の鼻先をこすり付けながら、その顔をぺろぺろと舐め始めた。それから、初夏の日差しを感じる窓辺
で、午後のまどろみを楽しんだ。
ー僕がこの部屋に来て、どのくらい経っただろう?
辛くて寂しくて、なんとかこの家から逃げ出そうと、そのことばかり考えていた毎日が、ちいのお陰で
一変した。優しさとか思いやりとか、そんなふうな温かな気持ちを、素直に感じることができるようになってきた。同時に人
間の家で暮らすことの恐怖や緊張も、次第に薄らいでいった。
ちいの言うように、僕たちが人間に食べられるかもしれないというのは、誰かの作ったでたらめな話だろう。暖かい日射しに
包まれて、僕は心の奥底にあった氷の塊がゆっくりと溶けていくのを感じていた。