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アジサイの季節が過ぎたかと思うと、今年はいきなり夏がやってきた。朝から元気な陽の光が、この家の小さな庭いっぱい
に降り注いでいる。
遅めの朝食をとった後、リビングで微かな唸り声をあげているクーラーのヒンヤリ気持ち悪い空気を避けて、僕たちは玄関前
の廊下に今日の居場所を移した。
ここだけの話、猫はよほど熱い日でない限り、クーラーの風は勘弁してほしいと思っている。
あの人工的に作られたヒンヤリ感には、どうしても馴染めないんだ。僕たちはクーラーの効いた部屋から離れ、このヒンヤリ
したフローリングの床に寝転んで、思う存分体を伸ばし暑さをしのいでいた。
「あ、誰か来た」
僕たちの耳が玄関に近づく足音の方向に素早く回転した。
聞きなれない足音だ。ガサゴソと何か大きな荷物を抱えているようだ。
ピンポーンと元気よく玄関のベルが鳴った。その音にあわてて跳ね起きた僕たちは、大急ぎで廊下の隅に置かれている観葉植
物の大きな鉢の影に隠れた。
「ちい、尻尾もちゃんと隠したよね。これから僕が危険な人間かどうか確かめるからね」
ちいの肩を引き寄せながら、僕は小声でささやいた。
実は、人間の家で平和に暮らしながらも、唯一気をつけなければならないことがある。
それは時おり外からやって来る猫嫌い人間の攻撃から、身を守ることなんだ。
前にも言ったように、僕たちは誰にも負けないくらい優秀な耳を持ってるから、この家に近づく人間が男か女か、若いか年寄
りか、太ってるか痩せてるかなんてことまで、玄関のベルが鳴るずっと前からわかっている。
だけど個々の人間が持つオーラについては、この目でしっかり見て確認するまで判らない。
この(ピンポン隠れろ作戦)は、そこを解決するため考え出されたものなんだ。
例えば、さっきのように玄関のベルが鳴ると同時に僕たちは何をしていてもそれを中断して、大急ぎ何かの陰に身を隠す。
その後玄関から入って来る人間のオーラを、陰からこっそりと確かめ、その人間の危険度を把握する。そして、もし玄関にい
る人間が (猫嫌いオーラ)を持っていたなら、その時は、
「この家の中に猫がいる」ということを悟られないよう、最大限の注意を払う。
その人間が、玄関だけで帰ってくれれば良いのだが、お客様用スリッパに履き替え、家の中にまで入って来るようなら、警戒
レベルを最高値にまで引き上げ、用心に用心を重ねながら、そのお客が玄関から出ていくのを待つ。
決して僕たちの存在を悟られてはいけない。例えれれが呼んでも無視だ。
この決まりを徹底させることで、僕たちは人間の家での平和な暮らしを、完璧なものに保っているんだ。
ところで、オーラを見分けるというこの作業は、僕の担当となっている。
外にいた時、ノラ猫集会の夏期集中講座で習ったこの人間のオーラ診断、僕はわかっているのだけど、ちいにはどうも難しす
ぎるようだ。いくら教えても頭に入らない。
まあ、赤ちゃんの時から人間の家で何の心配もなく育ったちいに、人間オーラの見分け方を教えようとしたって、ピンと来な
いって顔されても仕方ない。
だけど、僕たちの平和と安全を守るためには、これは絶対に必要な技なんだ。
そこで、このオーラの見分けについては、何度も言うようだが、やはり経験豊富な、この僕の担当するところとなった。
ちなみに猫嫌いオーラ以外の人間、例えば”猫どうでもよいオーラ”や”猫好きオーラ”を持った人間が来た場合はというと、ま
あ、特に心配いらないので、その時の気分に任せて臨機応変に対応することにしている。
「ちい、じっとしててよ。僕がきちんとチェックするからね」
ちいが動かないよう首根っこの部分に片方の前足を乗せたまま、僕は上半身をねじり、観葉植物の鉢の影からそっと玄関の様
子をうかがった。
ーまずい!
僕の体を包む全身の毛が一瞬にして立ちあがった。
玄関にいる人間のオーラは間違いなく、猫嫌いオーラだ。
今、玄関でれれと話している人間からは、かなり濃い危険オーラが発せられている。
思わずちいを守ろうと、ちいの上に覆いかぶさった。
といっても、伸び盛りのちいは日々縦に横にたくましく成長していて、もともと中肉中背だった僕は、最近横にポッチャリ肉
が付き始めたとはいえ、ちいの体を覆いきれず、どちらかというと、その背中にしがみついているだけの状況だ。
ちい、動かないでよ。かなり危険度の高い人間だからね。だけど安心して良いよ。この家に上がり込む気配はないようだ」
僕たちはその狂暴そうでやたらデカい人間のオスが去っていくのを、息を殺して待っていた。
時間にしてせいぜい一分くらいだったと思うが、僕たちには気の遠くなるような長い時間だった。
バタンという玄関ドアの閉まる音に、
「ああ、やっと帰った」
やれやれと鉢の影から出てきた僕たちは、思い切り体を伸ばし、さっきまで緊張して固くなっていた体 をていねいに舐め
て落ち着かせてやった。
「あれ? れれが何か大きな段ボール箱を抱えているよ。さっきの人間が置いて行ったようだ」
「○△×」と言いながら、れれは廊下の真ん中に陣取っている僕たちを避けるように、さっきの猫嫌いから受け取った大きな段
ボール箱を、リビングに運んでいく。
「今、れれは僕たちに何て言ったの? 」
「危ないからよけてねって言ったよ」
ちいが即座にれれの人間語を通訳した。
「危ない? うーん、何だか怪しいぞ」
危ないという言葉に敏感な僕のひげが、四方八方にピンと伸びた。
「ちい、僕ね、あの段ボール箱が怪しいと思うんだ。さっきのデカい人間が帰るとき、れれが何か言ってたよね? 何て言った
か覚えてる?」
「ありがとうございましたって言ってたけど」「え? ありがとうだって? 何だか怪しいじゃないか」
こんな場合、何だって怪しくなってくる。
「じゃあ、その前にヤツは何て言った? れれに紙を渡してたように思うんだけど」
「えーと何だっけ。ああそうだ。ここに受け取りのサインお願いします、とか何とか言ってたよ」
何のことかさっぱり分からないだけに余計怪しい。
僕はちいの人間語聞き取り能力の高さに関心しながらも、猫嫌い人間の残していったあの大きな段ボ
ール箱の中身が気になって仕方がなかった。
「ちい、これは僕の想像でしかないのだけど、れれがリビングに運んでいった、あの段ボールの中身っ
て、僕たちにとって嬉しくないもの、例えば猫を追い払うための空気銃とか、そこまでいかなくても 僕たちが嫌な気分にな
るような何かが入っていると思うんだ。間違いないよ。なんせ猫嫌いが置いて行ったものだからね。あ、勿論れれはそんなも
のとは思いもしないで受け取ったと思うよ。だけどれれは、あの通り呑気な性格だから、何これ? なんて言いながら箱を開け
て、その中の説明書に書いてある通りに使ってみたりする んじゃないかと、心配で心配で、僕考えただけでぞっとしてきた
よ。とにかくあの箱は要注意だから、当分はリビングにも近寄らない方が良いと思うんだ」と、真顔で迫る僕に、
「ああ、またまるちゃんの心配性が始まったよ。そんなことある訳ないじゃないか」
とため息まじりの言葉を残し、ちいは何事もなかったように尻尾をピンと立てながら、れれのいるリビングに向かった。
「止めろって! 」
慌てて引き留めようとするあまり、僕はちいの横っ腹に体当たりをした形になり、その勢いでちいと一 緒に思い切り壁にぶ
つかり倒れてしまった。
「何するんだ!」
僕をはねのけ、起き上がったちいの目は怒りに満ちている。
「ごめん、ちい。僕、そんなつもりじゃ」
慌てて立ち上がろうとした僕の背中で、また次のピンポンが新たな来客を告げた。
「あ、また誰か来た! 隠れよう、ちい!」
だが、ちいはぷいっと横を向いたかと思うと、れれのいるリビングの方に走っていった。
「ちい! 」
リビングから出てきたれれが、足元のちいを抱き上げ、そのまま新しいピンポンのお客を迎えに玄関に向かった。
―ああ、なんてことだ。今回のピンポンが、どうか猫好きオーラか、少なくとも猫どうでも良いオーラを持った人間でありま
すように。
観葉植物の鉢の影にひとりむなしく身を寄せながら、僕は神に祈っていた。
ドアを開けて姿を現した人間は、果たして猫嫌いオーラをビンビンと発している、生粋の猫嫌い人間のメスだった。
―ああ、最悪のシナリオだ。
何も知らないちいは、れれの腕の中で喉をグルグル鳴らしている。
お客の前でれれの足が止まった。
次の瞬間、猫嫌い人間の鋭い目がちいの姿を捉えた。
―ああ、ちい
僕の心臓がバクバク音を立てている。
ちいを助けなくっちゃと思っても、体が震えて動けない。が、
―あれ? おかしい。ちいのこと、猫のぬいぐるみだとでも思っているのかな?
目の前の猫に何の反応も示そうとしないお客は、玄関でれれとにこやかに 挨拶を交わした後、どうやらこの家に上がり込むよ
うだ。
れれが、ちいを抱いたままお客様用スリッパを出そうとしている。
―面倒なことにならなければ良いが。
と思った次の瞬間、僕の心臓は破裂せんばかりドキンと大きな音を立てた。
なんということだ! れれがちいをお客に差し出そうとしている。
―ああ、ちい!
絶望的な叫びをあげた僕だったが……。
何ということだ。僕は目の前の光景に、口をあんぐり開けたてまま、しばらく息をするのも忘れてしまった。信じられないこ
とに、この生粋の猫嫌いオーラを持った人間の方が、ちいを恐れて後ずさりしているではないか。激しく両手を横に振りなが
ら、恐怖にひきつった顔をゆがませて、ちいを怖がっている。
ーちいが怖い?
まあ、確かにちいは最近体が大きくなったし、どちらかというと短気で、怒らせるとちょっと怖い時もある。
が、たかが猫じゃないか。
でかい人間のくせに何故猫のちいを怖がるんだ。立場が逆ではないか。
こういう場合逃げるのは猫の側で、人間はシッシッと猫を追い払うのが常だ。
僕は、今までの経験からは想像もできない(猫を怖がる猫嫌い人間の行動)を目のあたりにして、思わず唸ってしまった。
確かにお客様用スリッパに履き変えたれれの友達らしき人間は、その態度からもオーラからも
「私、本当に猫が嫌いなの」という雰囲気が否が応でも伝わってくる。
彼女が猫嫌い人間であることは疑う余地もない。では新種の猫嫌いなのだろうか?
僕は、すっかり頭を抱え込んでしまった。
思ったほどの危険はないようだ、と安心はしたものの、ちいはこのままれれに抱かれて、猫嫌い人間のお客と一緒にリビング
に入って行くのだろうか、大丈夫なんだろうか、と次の心配が始まりかけた時
「△○×」
れれはちいの体を自分の体から剥がし、フローリングの廊下に降ろしたかと思うと、そのままお客をリビングに案内して行
き、後には置いてきぼりをくらい、ふくれっ面をしたちいが、ぽつんと残されていた。
「ちい、大丈夫だった? 」心配したことが何も起こらずホッとした僕は、あわててちいに駆け寄った。「大丈夫じゃないよ。
失礼な客だよ全く。れれが、うちの猫ちゃん可愛いでしょう、ちいっていうの、あ なたもちょっと抱いてみる?なんて言う
から僕もその気になって、ちょっと可愛く甘えた振りをしながら、ヤツの腕の中でグルグルのどを鳴らしてサービスしてやろ
うかと思ったら、なんだあの失礼な態度!私は猫が嫌いだから近づけないで、だってさ」
―ああ、そういうことだったんだ。
僕はさっき玄関で、ちいを怖がりガタガタと震えんばかりに怯えていたお客の顔を思い出した。ちいの怒りは収まらない。
「僕がなにか悪いことしたんなら別だけど、挨拶しようとしたらいきなり、あんたなんか嫌い!だもんな。初対面の僕に向か
ってとる態度じゃないだろ。れれもれれだよ。まるちゃんも聞いたよね? その後れれが僕に言ったこと」
「あ、ごめん。僕まだ人間語がよくわからないんだ」
ちいの怒りにつられて、つい僕は謝りながら答えた。
「彼女は猫が嫌いだっていうから、ちいちゃんは廊下で遊んでね、だってさ。れれもどうかしてるよ」
―ああ、だからさっきちいを床に置いて行ったんだ。
外で嫌な経験をしたこともないちいは、小さい時から人懐っこく、この家に出入りする人間、特に猫好 きオーラ持ちの人間達
の間では、いつも人気者の愛され猫だ。だから、さっきのような屈辱的な経験は、どうにもちいのプライドが許さないらし
い。
僕に突き飛ばされ、カンカンに怒っていたことなどすっかり忘れている様子で、初対面の人間から受けた理不尽な扱いにしば
らく憤慨していた。
別に危険な目に遭ったわけでもなく、猫嫌いからちょっとプライドを傷つけられたくらいなんでもないじゃないか、蚊が止ま
ったくらいだよ、というのが正直僕の本音なんだけど、そんなことをちいに言う訳にもいかず、
「ほんと、失礼なヤツだね。ちいのこと何も知らないくせにね。れれも、何であんなヤツと友達やってんだろうね!」など
と、ちいの怒りに調子を合わせておいた。
それにしても、今日は二回続けて猫嫌いオーラ人間が玄関のベルを鳴らすなんて、全く気の休まるときもないよなぁ。
あ、そういえばさっきの箱。急に例の段ボール箱が気になり始めた。
「ちょっとリビング覗いてくるね」
という僕に、怒りの収まらないちいは
「あんなお客のいる部屋に近づくなんて」
と言いながらも、口を尖がらせてついて来た。
僕たちはヒゲをピンと立て、ドアの陰からそぉっと部屋の中をうかがうと、れれが今まさに、段ボール箱を開けて中の物を取
り出そうとしているところだった。
「リンゴだ」
れれの手の平で、つやつや光る真っ赤なリンゴが
「わたし美味しそうでしょ」と言わんばかりに輝きを放っていた。
今日最初のピンポンが鳴った後、猫嫌いオーラを全身にまとったあの人間のオスが置いて行ったものは、猫を追い出すための
武器ではなくて、箱一杯のリンゴだった。
「○△×」
リンゴを手にしたれれが言うと
「○×△」と二度目のピンポンの無礼な客が答えた。
僕はなんとなく、今の二人の会話が理解できたような気がして
「もしかしてれれが、りんご食べる? って聞いたら、うん食べる、ってあいつが答えてた?」
と、人間語の達人ちいに確認した。
「まるちゃん、すごいよ! 完璧だよ! いやもう、まいったなぁ。こんなに早く人間語がわかるようになるなんて。さすがだね
ぇ。もう、ゴールは目の前だよ」
褒めて伸ばすとは、このことなんだろう。
だけど、人間語が少しでも理解できるようになりたいという僕のモチベーションを大切にしてくれる、ちいの気持ちが嬉しか
った
ちいにあいつ呼ばわりされたれれの友達は、八等分にされて瑞々しい香りを放っているリンゴを続けざまに頬張り、まずそう
なコーヒーを何倍もおかわりしながら、しばらくれれとのお喋りを楽しんでいた。僕たちはもちろん、それ以上はリビングに
近づかないよう、玄関の右側にあるれれ夫の狭い部屋に避難し、アイツが帰るのを今か今かと待っていた。
時計の針が何周か回った後、今日二度目の猫嫌いオーラ人間は、リンゴをたらふく頬張った後、猫の存在などすっかり忘れて
しまったように楽し気な様子で帰っていった。
「ちい、さっきはごめんね。僕、段ボール箱の中身が怖くてつい」と言いかけると、ちいが笑顔で遮った。
「もういいよ、まるちゃん。それより僕話があるんだ。猫嫌いオーラの人間のことでね」
「う、うん。何?」
あれほど猫嫌い人間の恐ろしさをちいに力説し、ピンポン隠れろ作戦の有効性を説いた僕だったが、こうも相次いで予想外の
猫嫌い人間が現れると、このピンポン隠れろ作戦は、意味があるんだろうか、などと気弱になってきたりする。
ちいはちょっと言葉を選んでる風にうつむいて、お腹のあたりを丁寧に舐めた後、思いついたように顔をあげ一気に話し始め
た。
「話してもどうせまるちゃんには信じてもらえないと思って黙っていたんだけど、この間うちに来た猫好き客のこと覚えてる
よね? 確か、れれ夫の同級生だったと思うけど、夜遅くまでれれ達と食事をした後、上機嫌で帰っていったあの猫大好き人間
のこと。かなり濃い猫好きオーラだから、安心して良いよってまるちゃん言ってたでしょ」
「ああ、 生まれつき猫が大好きで猫無しでは生きていかれませんタイプのあのお客さんのことだね。もちろん覚えているさ」
あの日ピンポン鳴らして入ってきたお客は、ドアが開いたとたん思わず目を閉じてしまうくらいの強烈な猫好きオーラを眩い
ばかりに四方八方まき散らしていた。
外見は怖そうだけど猫に格別フレンドリーなそのお客さんは、れれ夫婦とここで食事をする予定らしく、右手にはワインのボ
トルを、そして左手にはなんと僕達へのお土産に、と美味しそうな 猫用おやつの袋を下げていた。
この温かい気配りに僕たちは驚き感動した。
ちいは早速お客さんの膝の上に乗り、最高級のスリスリやペロペロでもって僕の分の喜びもお客に伝えてくれた。
強面だけど親切なそのお客さんは、まずそうなワインを美味しそうに飲みながらも、ずっと手を休ませることなく、膝の上の
ちいを撫で続けていたし、その間ちいも、うっとりした様子ゴロゴロと喉を鳴らしていたから、さすがに根っからの猫好き人
間は、猫が気持ちよく良くなるツボを押さえているなぁ、と感心しながら、人見知りの激しい僕は少し離れたところで、その
穏やかな光景を安心して眺めていたんだ。
ちいが続けて言った。
「あの時膝の上で僕、れれ達みんなの話を聞いていたんだけどね、実はあの猫好きオーラ満載のお客さんは、驚くことにちょ
っと前まで外では猫を見かけたら石を投げつけたいくらい猫が嫌いだったらしいよ。もちろん石なんて投げてませんよって、
慌てて否定していたけど、本当のところはどうなんだろうと思うよ。まあ、人間が下手な石を投げつけたところで、そんな物
に当たるほど猫はぼんやりしてないと思うけどね。で、その大の猫嫌いが一変したのは、娘が公園で子猫を拾ってきて、仕方
なく飼い始めた時からなんだって」
いつもの僕なら
「それはちいの聞き間違いだよ。そんな事ありえないよ」の二言で終わらせそうな話だが、リンゴの一件といい、その次に来
たリンゴの好きな猫嫌いの態度といい、この家に入ってくる”猫嫌い人間達の態度は、明らかに外にいた時と違っている。
はっきり言って、予想外の反応なんだ。このままだと、せっかくのピンポン隠れろ作戦や、それとセットになっている僕の得
意技”人間のオーラ診断”は、なんだか無駄なものに思えてくる
いったい、ここに来る猫嫌いたちは、どうなってるんだ……。
僕は、心の動揺を隠すようにわざと平静を装いながら
「そうか、まあそういう事もあるかもね」と曖昧な返事を返し、
「人間って、僕たちが考えているよりずっとバリエーションが豊富なんだね」」
と付け加えて、とりあえずその日は終わりにした。
その後何日間かは、れれとれれ夫以外の人間とは接することもなく、平凡な日が過ぎていった。
あ、そういえば一度、猫どうでも良いオーラの人間が段ボールを持って来たことがあった。
猫どうでも良いオーラの人間は、猫がこの世に居ようがいまいが本当にどっちでも構わないと思っているようで、安全といえ
ば安全だが、僕たちの存在に全く何の興味も反応も示さないこのタイプの人間は、僕たち猫にとってもまた、論ずるに値しな
いどうでも良い存在だった。
その、猫どうでも良いオーラの人間が運んできた段ボールの中身だが、どうせまたリンゴだろうと思ったらそうではなくて、
今度はガラスの小瓶が二,三個入っていた。僕には未だにその意味が理解できないでいるのだが、れれは一日も欠かすことな
く朝晩鏡の前に陣取って、クリームや液体を自分の顔に塗りたくっている。
れれにとってかなり大切な日課だということは、その真剣な面持ちからもしっかりと伝わってくる。このピカピカ光るガラス
の小瓶は、その時に使う物に違いない。まあ、僕たちに実害がなければ何であろうと構わない。
今朝も朝からセミの大合唱、朝からご苦労さんと思いながら僕たちは玄関のタイルの上でゴロゴロと転がりながら、体を冷や
していた。
実はこれ、暑い夏を乗り切るちょっとしたアイデアなんだ。
夏がくれば夏服に着替え、クーラーの効いた部屋で「とりあえず」とビールを飲んで体を冷やす人間たちと 違い、僕たちはど
んなに暑い日でも毛皮のコートで我慢しなければならない。
おまけにクーラーの風が苦手なものだから、体温調節のためにはいろんな工夫が必要となってくる。
そこで考え出したのが、ヒンヤリ気持ちの良い玄関タイルにぺとっと張り付く姿勢で涼をとる、この方法だ。
今日は朝かられれ夫婦がお出かけのようで、締め切ったリビングは蒸し風呂状態になっている。僕たちは迷わず玄関タイルに
向かった。
「まるちゃん、今日はなんだか優しくて、くすぐったい匂いがするね」
クンクンとタイルの匂いを嗅いだ後、ちいがそう切り出した。玄関タイルは、いろんな匂いでもって僕たちを楽しませてくれ
ている。
その匂いは、人間の靴にくっついてこっそりと外からやって来る。
例えば土の匂い、草の匂い、アスファルトの匂いなど、僕にとっては懐かしさと切なさの混じった外猫時代の思い出の香りだ
けど、外暮らしの経験のないちいにとっては、異国の香りそのものに違いない。
「ああ、これは畑の土の匂いだよ。昨日れれが友達の畑で採れたっていうナスやトマトを沢山もらって帰っただろ。れれの靴
底に、そこの土がついてたんだろうね。畑は野菜たちのお母さんだから、こんな風に甘くて優しい匂いがするんだ」などと、
もっともらしい説明をしていたその時、玄関ドアの向こうにれれ夫婦の足音が聞こえてきた。
あれ? 別の人間も一緒だ。誰かお客さんを連れて帰って来たらしい。
この場合隠れるべきかどうするべきか、とモタモタしている間にガチャとドアの鍵が開けられ、れれ夫婦ともう一人、初めて
見る人間がそこに立っていた。
―しまった! 猫嫌いオーラだ!
この暑いのに何を考えているのか、黒づくめの衣装を身にまとい、長くて黒い手袋に顔半分が隠れるくらいのサングラス、お
まけに魔法使いも驚くほどの大きなツバの帽子を深々とかぶった、れれの友達とおぼしき人間が、強力な猫嫌いオーラを放出
しながら、れれの隣に仁王立ちで立っているではないか。その体からは、僕が今までお目にかかったこともないくらい強烈な
猫嫌いオーラが放たれている。思うに生まれつき、いや前世からの猫嫌いなのだろう。
そのDNAのひとつひとつにまで猫嫌いのデータが書き込まれているような人間と、こんな風に鉢合わせしてしまうなんて。
ああ、どうしたらいいんだ。
僕はすがるような目でれれを見た。れれは何も気が付かない様子で、お客様用スリッパを用意している。「○△○」
れれ夫が笑顔でお客を招き入れた。お客は、するどい眼光でもって僕たちを目の端に捉えた。
僕は思わず身構えた。ただならぬ気配を感じたちいも、瞳孔をいっぱいに開き、全身の毛を立て体を膨らませている。
お客は口元に不吉な笑いを浮かべながら、長くて暑苦しそうな手袋を静かにはずし、れれの夫に、
「○△×」と言った後、用意されたスリッパに履き替え、僕たちから逃げるようにそそくさとリビングに入っていった。
「今までで最高の猫嫌いオーラだったんだけど、何か言ってたよね? 」
リビングのドアを睨みつけながら、僕はちいに尋ねた。
「すみません。私猫アレルギー持ってて。だから、ちょっと猫ちゃんは苦手なんです。あ、でも大したことないですから、気
にしないでくださいね、だって」
この家に来て以来いつも感じていることだが、猫嫌い人間の、猫に対する態度が、明らかに外で暮らしていた時と違ってい
る。以前なら、ほとんどの場合
「シッシッあっちへ行け! 」と追い払われるか、ひどいときにはいきなり攻撃をしかけてくる人間もいて、「猫嫌いオーラの
人間らは一目散に逃げること」というのが猫界の鉄則だったのだけど……。
僕はふと大きなつるつるの台のある建物の中で出会った、体の大きなオス猫が言ってた
「家猫は、慣れてくれば最高だぜ」という言葉を思い出した。
それまで、我ながらなんと上手く計画された防衛術なんだと自負してきた作戦が、実は意味がないものだと認めることは、世
間の荒波超えて生きてきた先輩猫としてなんとも不名誉なことではあるが、ここまでくればもうプライドもなにもない
「ねえ、ちい、ピンポン隠れろ作戦のことだけど、もう止めようか?」という僕に
「ヤッター、止めよう、止めよう」
と、僕の心の中の葛藤など思いもしないちいが、大賛成の歓声をあげた。
まあ、正直僕も面倒になってきていたので、少しほっとした。
僕たちは仲良く並んで、もう一度玄関タイルに思い切り体を伸ばした。
家猫という肩書の持つ意味を再確認した真夏の一日だった。