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「診察室へどうぞー」と声をかけられたのは、それから二十分ほど経った頃だった。
それまでは持参していた小説を読んで時間を潰していた。
真ん中の行、その三分の二までを読んでいたところであったので、次の「。」まで読ませてもらい、栞を挟んでから左手でパタンと冊子を閉じ、スリッパを滑らせていった。
廊下を進んで行くと、ベテランそうな女性の看護師さんと目が合ったので、咄嗟に会釈を飛ばした。
その看護師さんは穏やかに微笑むと、横開きのドアに取り付けられた取手を掴んで閉まらないように抑えつつ、「はぁい、どうぞ〜」と朗らかな声で診察室の奥へと案内してくれた。
「失礼します…」
硬い表情、重たい顔つきのまま、目の前に置かれていた背もたれの無い丸椅子に腰掛ける。
「こんにちは、初めまして」
「ぁ、ぇ、ぇっと…」
カルテとデスクトップパソコンのモニターとを交互に見つめていた目線の動きをピタ、と止めると、その先生は柔らかい挨拶を返してくれた。
病院の先生に「初めまして」と言われたのは始めてだ。
しかし、口篭ったのはそれが理由ではなかった。
「ぁの、、この間、学校に来てくれた先生、ですよね…?」
強い見覚えがあった。
先日の身体測定の日に、問診に来てくれていたあの先生だとすぐに直感した。
「あら、あの学校に通ってらっしゃるのね」
少しだけ驚いたような表情を見せたあと、先生は楽しそうに笑った。
「学校から近い場所にここを構えてるからかしらね、今年もお願いしたいって、毎年先生方から声をかけていただくの」
「そうだったんですね、俺が入学する前からずっと、ですか?」
「そうね、もう十年近くお世話になってるかしらね」
「そんなに…!」
「ふふ、なんだか私が診察してもらってるみたい」
「ぁっ、、すみません…」
「いいえ、とても楽しいわ」
「そ、そうですか…?」
「人と話すのが好きだから、ついつい診察に関係ないことばかり話してしまうの。私の良いところでもあり、悪いところだとも思ってるわ。看護師たちからよく注意されるの、「せんせー、まぁたお喋りばぁーっかりしてましたよー?」って、ふふふっ」
「ぁはは、でも、すごく安心します。優しい先生でよかったって、今とても思えてます」
「あら本当?とっても嬉しいわ。ありがとう。…ほら、言ってる間にもおしゃべりしてる」
「ぁははっ」
「さて、それじゃあ本題に入っていくわね」
「っ、…はい」
「まず、最初に謝らせて欲しくて。ごめんなさいね。初めて来てくれたのに、いきなり検査してもらうことになってしまって」
「ぁ、ぁあ、いえ…」
「問診票に書いてくれた通り、最後の検査が3年前ってことと、ウチのカルテにも数値は残しておかないといけないからどうしても必要で…」
「い、いえ、気にしないでください」
「みんなそう言ってくれるけど、簡単に扱っていいものではないから。嫌な気持ちにさせていないかしら?看護師はちゃんとあなたに声をかけていたかしら?」
「本当に大丈夫です。いきなりのことで驚きましたけど、前にも何回かやったことありましたし。それに、今先生がそうやって言ってくれたので、驚いてしまったことも全部吹き飛びましたから」
「そう?なら良かったわ、ありがとう。…さて、じゃあ今度こそ本題に入るけど、うん、そうね、」
「…っ、」
赤縁の眼鏡の隙間からモニターをじっと見つめて、先生は小さく唸る。
重たい調子が混じっているわけではなかったが、それでも体は緊張に震えた。
ごきゅ…と唾を飲み込み、先生の言葉を待つ。
「うん、大丈夫」
「えっ…?」
「とっても健康よ。精子量もΩの基準値にしっかり入ってるわ」
「そ、そうですか……」
「数値は問題ないけど、それ以外ではどうかしら?」
「それ以外…ですか?」
「体調とか気持ちの方に落ち着かないこととか、具合が悪いなって感じることはある?」
「そう…ですね…、」
「どんなことでも大丈夫よ」
「えっと、、、その…、この間…」
「ええ」
「…は、初めて…、ひ、発情期が…きて…」
「そうだったの、それはとってもびっくりしたね。15歳を過ぎてから徐々に発情期が来るのが平均的だから、時期としては少し遅めでもあるし、不安だったでしょう」
「それで、それがなんでだったのかなって…。心当たりはあるんですが、なんていうか、その…全然理屈めいてなくて…、もっと現実的というか、医学的な理由があれば納得できる気がして…」
「そうねぇ…。ぁ、ねぇ、亮平くんって呼んでいいかしら?」
「へ、ぁ、どうぞ」
「ありがとう。亮平くんが思ってる、その心当たりっていうのは、どんなことかしら?」
「ぇと…、今週、初めて会ったαの子がいて…えっと…、その子と初めて目が合った時…?匂いがした時…?に初めて発情期が来たので、もしかしたらその子が…その…運命の番なのかな、、って…」
「うんうん。でも、亮平くんには、それが迷信みたいに思えてしまうって感じかしら?」
「はい。だって、運命の相手かなんて誰にもわからないし、運命なんて目には見えないし、言葉とか数字では証明できないのに…」
「賢いのね。だとしたら、これは亮平くんにとって一番難しく感じるものかもしれないわね」
「難しい…?」
「運命の番で結ばれたαとΩの間には、とっても濃くて深い絆があるんですって」
「濃くて、深い絆…」
「目には見えないのよ、残念なことにね。それに言葉でも数字でも、理屈でも、説明も証明もできない。それでも確かにあるんですって」
「それってどうやって判断するんですか?なんの根拠も無いのに…」
「ふふ、先生、今から医者としてとっても無責任なこと言うわよ?」
「は、はい…っ、」
癖なのか、先生はその赤縁の隙間から、また切れ長の茶色い瞳を覗かせて、悪戯っぽく笑った。
「直感なんですって。でも、それが何よりも一番大切なんだそうよ」
確かに、医学とはまるで程遠いところにある「感覚的」な話である。
しかし、妙に腹落ちしている自分もいるような気がした。
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「他に何か不安なことや困っていることはない?」
そう尋ねられたので、薬の相談をしようと思い立った。
「抑制剤が合ってない気がして…」
「あら、今は何を飲んでるの?」
「ぁ、えっと、さっき飲んだやつ…、これです」
カバンの外ポケットに一時的に入れておいたアルミシートのゴミを取り出して、先生の前へ提示した。
「これは効き目としては一番良い薬だけど、あんまり効かない感じがする?」
「はい、飲んでも来ることが多くて。それから副作用も重たくて…。ずっと眠いし、体も怠いし…」
「そうだったの、辛かったね。これを飲み始めたのはいつぐらいからか覚えてる?」
「今週からです。さっき話したαの子、あの子に初めて会った日からです」
「だとしたら、副作用が重いのはまだ体が薬に慣れてないからかもね。よく効く薬な分、亮平くんの体に反対方向に強く反応してしまったのかも」
「なるほど…」
「あとは、抑制剤の効果が薄いって感じる部分ね、これはまたまた全然医学的じゃないけれど、抑制剤が効かないほどに、体が強くその子に反応してるのかもしれないわね」
「そんなぁ…」
「まぁまぁ、三つ目は先生の妄想だと思っておきましょうか」
「そうします…」
「じゃあ、効き目は少し落ちるけど、副作用が軽いものを一ヶ月分出しておくわね」
「ありがとうございます」
「高校三年生じゃそろそろ受験でしょう?勉強したいのに副作用で居眠りなんてしちゃったら大変だものね」
「ぁははっ、はい。それだけは絶対に避けたいです」
「あははっ!勉強に熱心なんてとても素敵。親御さんも嬉しいでしょうね」
「母も先生にいつもお世話になってるって言ってました。親子共々ありがとうございます」
「あら!そうだったの!あの方かしら…?大切な患者さんのご縁が増えてとっても嬉しいわ」
「ふふふ」
「薬の効き具合と経過も知りたいから、また一ヶ月後に来てくれると嬉しいわ」
「はい、ぜひ」
「その時にエコー検査させてもらえたらと思ってるんだけど、どうかしから?」
「エ、エコー、ですか…?」
「無理にとは言わないわ。保健の授業で習ったかしら?Ωの子は成長期に女性の子宮に似た器官が発達していくでしょう?それがちゃんと機能しているか、発育が順調か、一緒に見られたらと思って」
「は、はい…っ、」
「もしかしたら、薬が効きづらい理由と18歳で初めて発情期が来た理由も、それでわかるかもしれないから。精子の量だけで全ての診断をするのは難しいところもあってね…」
「なるほど、わかりました。大丈夫です」
「強いのね」
「全然です。もし強くなれたんだとしたら、多分…」
「うん?」
「…ぁ、、、ふふ、なんでもないです」
「そう?…あながち妄想でもなさそうね」
「へっ?」
「ふふ、先生も、なんでもないわ」
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診察室を出て五分ほどした後、精算に呼ばれたので再び受付へ向かった。
カーディガンの看護師さんは「じゃあ次は一ヶ月後にまたきてくださーい」と語尾を伸ばしながら、お釣りと診察券を乗せたコイントレーをこちらにススー…と押し出した。
「ありがとうございました」と軽くお辞儀をすると、彼女は次のカルテを手に取りつつ、こちらに顔を向けて「お大事にー」と落ち着いた笑みで見送ってくれた。
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歩いてきた道を、ゆっくりと一歩ずつ踏み締めていく。
もう一度、空を見上げてみる。
テレビ画面を全て埋め尽くしていたネモフィラのような、透き通る青だった。
それは、海を受け入れた色。
飲み込まれそうなほどに大きなあの海を、さらに大きな腕で全て包み込んだ色。
天気でさえ、全ての事象に説明がつくというのに。
不服だ。
でも、もし、俺が強くなれているんだとしたら、多分。
やっぱり不服だ。
「じゃあ、なんでそんなに笑ってるの?」
そう問いかけてくる誰かに、「さぁ?」とはぐらかすように吐息を漏らした。
To be continue…
コメント
3件

先生が、優しい😊 続きが楽しみです🫶
強くなれてるんだとしたら…🤭🤭 続きが楽しみーーーーーー!!😊🫶🏻
寺島あおいです🤍 三文小説さん、第12話読ませていただきました。 診察室の空気感がとても丁寧で、亮平くんの緊張がじんわりとほどけていく様子が伝わってきました。特に「直感」という言葉を先生が「医者として無責任」と前置きしながらも優しく差し出す場面、亮平くんが納得しかけている自分に気づくあたりが好きです。最後の「不服だ」「でも笑ってる」という矛盾——思春期の複雑な心の動きがとてもリアルでした。続きが気になります🌷