日高の小さな牧場。 前日の雨が、朝まで残っていた。放牧地の土はまだ湿っていて、長靴が沈むたびに低い音を立てる。 そんな中で、生まれたのは頼りない黒い子馬だった。 毛は濡れたままで、身体もまだ細い。
後の、アメノマエである。
「よく頑張ったなあ、〇〇……」
牧場の人が、母馬の名を呼ぶ。
母馬は耳を一度だけ動かし、すぐに子馬の方へ顔を戻した。
子馬は、なかなか立てない。
前脚が滑り、力が抜ける。
それでも母馬は、急かさない。
鼻先でそっと押し、 倒れれば、また身体を寄せる。
子馬が息を整えるのを、黙って待つ。
しばらくして、ようやく立ち上がる。
ふらつきながらも、母の腹へ顔をうずめ、 探るようにして乳を飲み始めた。
「小さいなあ」
誰かが、そう言った。
否定でも期待でもない、ただの感想だった。
雨は止み、空は曇ったままだ。
強い光はなく、風もない。
牧場では、よくある朝だった。
特別なことは、何も起きていない。
それでも、 この静かな曇天の下で、 前に出ようとする黒い子馬が、確かに息をしていた
―この子は、足が悪かった。
生まれてすぐの頃はよろよろで、立っているだけでも不安定だった。
幼駒になってからも、捻挫を繰り返した。
走る以前の問題だ、と言われても仕方のない状態だった。
期待はされていなかった。
血筋は平々凡々で、名のある勝ち馬が先祖にいるわけでもない。
牧場にとっては、数いる中の一頭に過ぎなかった。
見放されてもおかしくない危うさは、常にあった。
それでも、信じてくれた人はいた。
牧場の親子は、手を抜かずに世話を続けた。 母馬も、世話焼きな気質で、いつも子馬のそばにいた。
そんな幼駒時代のアメノマエが、 ある日、引き馬の練習をすることになった。
初めて見る装具。 母馬は落ち着いていた。
慎重ではあるが、それは長い時間を生きてきた馬の、海のような余裕だった。
だがアメノマエは、まだ幼い。
受け継いだはずの気質は、 怯える子馬として、そのまま表に出てしまった。
いや、それが当たり前だったのかもしれない。
なんとか無口が装着される。
手綱を引かれ、歩き出す。
最初は、怖さに従って素直に動いた。 だがすぐに不安になり、立ち止まり、 また歩き出し、 今度は慣れたのか、それとも別の理由か、 一歩も動かなくなった。
引き馬が自然にできるようになるまで、かなり時間がかかった。
人をリーダーとして見極めていたのか、 それとも、ただそういう性格だったのか。
喋らない馬のことは、知る由もない。
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