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中央のトレセンに移ってから、アメノマエは落ち着きを失った。人の出入りが多く、音も匂いも違う。日高とは、すべてが違っていた。
気性は荒れた。ある時は、担当の調教師を振り落とし、病院送りにした。ある時は、水桶をひっくり返し、自分で馬房の中に追い込まれるようにして、震えているところを見つけられた。
扱いづらい馬。危険な馬。
そう呼ばれても、不思議ではなかった。
それはすべて、期待されていなかった馬の、不安の表れだった。
——そう思っていたかは、わからない。だが、担当者が頻繁に変わること。日高から突然移された環境の変化。積み重なった不安感。
理由は、はっきりしていた。
そんな、いつもの暴れ馬が、ある人物と出会う。
後に、アメノマエの主戦騎手となる人だった。
その騎手は、真面目だった。真面目すぎるほどに。
まだ幼い時期の調教をしているところを、わざわざ見学に来る。結果も出ていない馬の様子を、黙って見ている。
その日、アメノマエは、少しだけ、じゃれてもらった。
——褒めてもらった。
嬉しかった。
言葉の意味は、分からない。だが、声の調子と、手の動きで、それが否定ではないことは分かった。
これまで、調教に詰めて、必死に取り組んできた。結果が出なかった日もある。叱られたことも、一度や二度ではない。
ただの部外者だと思っていた相手に、初めて向けられた、まっすぐな肯定。
今までにない感覚だった。
そこからの成長は、目まぐるしかった。
次の日から、水桶はひっくり返さなくなった。不安が消えたわけではない。時に拒絶もした。
それでも、真面目に、取り組んだ。
まるで、あの人に乗ってもらうために走る馬に、なろうとしているかのように。
「……こいつ、変わったか?」
かつて病院送りにされた調教師が、馬房の前で立ち止まって言った。
「前より、落ち着いて見えますね」
別の調教師が、アメノマエを見る。耳は前を向き、身体の重心もぶれていない。
「何かあったんですか?」
「特には……あ、そういえば」
思い出したように、声が上がる。
「この前、騎手見習いの人が見学に来てました。その時、少し構ってもらってましたね」
「……それだけか?」
半信半疑の声だった。
だが、変わったのは事実だった。
水桶は倒れない。人の動きに過剰に反応しない。調教中、意味もなく抵抗することも減った。
——認められる、というのは、これほどの力を持つものなのか。
調教師は、その日から接し方を変えた。
理由のすべてを理解したわけではない。だが、変化が起きたことだけは、確かだった。
できたら、褒める。失敗しても、叱りすぎない。
そして何より、この子の意志を、軽く扱わない。
アメノマエは、その空気の違いを、確かに感じ取っていた。