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羽海汐遠
12,098
#魔道具職人
こはる
471
フユめん
190
穴の底は透明な魔力が湖のように溜まっていて、中央に小さな島ができていた。
アイリが島の真ん中に立つと、魔法陣が起動した。日本語とユピテル語で描かれた非常に複雑なものだった。
ユーリには内容が分からないが、それでもシロが使った魔法陣と似た印象を受けた。
アウレリウスも思うところがあったようだ。膝をついて発光する魔法陣を観察している。
シロがアイリの腕から飛び降りた。
アイリは魔法陣を何箇所かチェックして、中央に戻ってきた。
「魔力量はギリギリだけど、何とか起動できる。お姉さん、こっちに来て」
ユーリは一歩を踏み出そうとして、ためらった。
「これは何の魔法なの?」
ユーリの問いかけにアイリは笑顔を浮かべた。得意げでもあり、悲しそうでもある笑みだった。
「転移魔法陣。この世界と地球を繋ぐ、わたしの最後の魔法だよ。これを使えば、お姉さんを日本に帰してあげられる」
日本に帰れる。
その言葉に、ユーリは目の前が白くなっていくのを感じた。
かつてこの国にやって来たばかりの頃は、故郷が恋しくて泣いていた。毎日のように、声を殺して。
年を取った両親に心配をかけて、申し訳無さでいっぱいだった。
友人や職場に迷惑をかけたと思えば、ふさぎ込むことも多かった。帰りたくて仕方がなかった。
でも、今は。
やるべき仕事があり、取るべき責任が生まれた。カレーと石けんの事業はまだまだ途上で、雇っている子供たちの暮らしの面倒を見なくてはならない。
大事な人も増えた。友人たちと、そしてアウレリウス。一生を共にすると誓った人。
今はもう帰りたくない。帰ってしまえば今度こそ、二度と戻れなくなる。
けれどユーリは言えなかった。アイリの境遇を知ってしまったから。
善意のつもりで助けたアイリは、過剰なほどの責任を感じてユーリを探し続けた。
十代の女の子が、進学を捨てて実家を飛び出して。そうしてとうとうこの世界にやって来て、五百年もの年月を待っていてくれた。
(余計なお世話だったのかな)
ユーリは思う。あのときアイリを助けなければ、こんなことにはならなかった。
結局アイリはこの世界に来て、ユーリのために魔王竜を生み出して、その結果アウレリウスとユリウスの父が死んでしまったのだから。
どこから因果がねじれたのか、彼女にはもう分からなかった。
「お姉さん。悠理さん。こっちに来て」
アイリが呼んでいる。あの夜と同じ少女が手を差し伸べている。
彼女の心を思えば、願いに応えるべきだった。全てはユーリの行動が発端だったのだから。
ユーリはふらりと足を踏み出しかけて――アウレリウスに肩を抱きとめられた。
「邪魔をしないで」
アイリが言う。その声はもはや少女のものではない。長い年月を経た願いが、妄執と言っていいほどの意志が込められている。
「お姉さんは、日本で幸せに生きる権利があるの。この国の勝手で奪うのは、絶対に許さない」
彼女の黒曜の瞳に冷たい炎が灯る。その表情は確かにアウレリウスとユリウスに似ていた。
冷たさと激情が同居するのは、彼らの血筋に共通するのかもしれない。
「一つ聞くが」
アウレリウスが言う。古い魔女の気迫に押されず、冷静に。
「貴女の話を聞くに、二人の召喚時期は過去と未来が逆転しているようだ。では、仮にユーリを日本に戻したとして、どの時点に戻る?」
ユーリははっとして彼を見た。思い詰めていた彼女は、そのことを失念していた。
アイリが答える。
「お姉さんが日本から消えた直後に。時間のロスはできるだけ少なくなるよう、術式を組んだ。そのほうがご両親も、職場の人も心配せずに済む」
「おかしいだろう。そうなれば貴女はどうなる。ユーリを追ってこちらに来た貴女の存在が、なくなってしまうのでは?」
そうだ、とユーリは思った。それにアイリはアウレリウスたちの祖先。彼女が最初からいなかったことになれば、彼らも消えてしまうのでは。
けれどアイリは首を横に振った。
「そうはならない。未来は枝分かれするの。そちらの未来においては、お姉さんはすぐに戻ってきて元通り。『わたし』は何もなかったことになって、以前と同じ生活を送る。でも、こちらの過去にも現在にも影響は出ない。全く別の並行世界として存在するだけ」
「そんな……」
ユーリは言う。胸が潰れる思いで。
「それじゃあ今のアイリは、何も救われないじゃない! 私が余計なことをしたばかりに、辛い思いをして。日本で幸せに暮す権利があるのは、あなただって同じなのに!」
「余計なことだなんて、言わないで」
アイリは今度こそ穏やかに微笑んだ。
「わたしね、助けてもらって本当に嬉しかったの。何の関わりもない人だったのに。それなのに、命がけで助けてくれて。
だからこそ探し出して謝りたかった。わたしのせいでごめんなさい。幸せを奪ってしまって、ごめんなさい。何も力になれなくて、ごめんなさい……ごめんなさい――」
繰り返し謝罪を口にする彼女は、悲しげに微笑んだまま。それがかえって痛ましかった。
「違う!」
ユーリは叫ぶ。アウレリウスの手を振り切って、アイリに駆け寄る。
「違うよ、アイリ! 私は今でも幸せなの。そりゃあ最初は大変だったけど、その分やりがいがあったわ。日本の家族や友達には申し訳ないけど、それでもよ。……アイリ、あなたはどうなの? こちらにやって来て、どうだった?」
「それは……」
ユーリに手を握られて、アイリは困ったように笑った。
「いろいろ、かな。大変だったり辛かったことも多かったけど、それだけじゃなかった。大事な人と結ばれて、子供も産まれて、幸せだった。でも、お姉さんに謝れないのが心残りだった。わたしだけ幸せだなんて、絶対にだめだもの。だからどうしても会って謝りたかった。日本に戻ってほしかった……」
「謝るのはもうじゅうぶん。子供だったあなたを助けるのは、大人として当たり前なの。あれは不幸な事故だったわ。でも私はしぶとく楽しくやってる。それでいいじゃない」
「そう、なの、かな……?」
「そうなの! 本人が言うんだから、間違いないわ。アイリだって幸せだったなら、私は気に病むのをやめる。ごめんなさいは言わないでおく。でも……」
ユーリはアイリを抱きしめた。今は年若い少女の姿の彼女を。
「でも、ありがとう。こんなに私を気にかけてくれて。五百年も待っていてくれて。ありがとう」
「…………」
アイリはしばらく黙ったままでいた。ユーリに抱きしめられるまま、力をなくしていた。
やがて彼女の瞳に涙が盛り上がり、ぱたりと落ちた。涙は後から後からあふれて、ユーリの肩を濡らす。
「許してくれるの?」
「もちろんよ! 最初から許すも許さないもないんだから」
「わたしのせいなのに?」
「違うでしょ。事故だったの」
「探してあげられなかったのに……」
「こうして見つけてくれたじゃない!」
アイリはそれ以上言葉を見つけられず、ただ涙をこぼす。涙と一緒に、これまでの長い時間を溶かしていくように。
そんな彼女をユーリはただ抱きしめていた。
コメント
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第75話、読み終えました……。もう、胸がいっぱいです。アイリが「謝りたかった」と繰り返すたびに、彼女が背負ってきた五百年の重みがひしひしと伝わってきました。ユーリが「ありがとう」と抱きしめる場面、本当に良かった。アイリの涙が、長い年月のわだかまりを溶かしていくようで、私ももらい泣きしそうになりました。お互いを思いやる気持ちが丁寧に描かれていて、とても温かい気持ちになりました。