リトミアの街中に広がる噂。それは、裏路地の古びた建物から響き渡る不思議なピアノの音色だった。最初は誰もが一時的なものだと思った。
だが、日が経つにつれ、その音は止まることなく、街のあちこちで耳にするようになった。そして、ついには「ピアノの言霊」として語られるようになった。
「聞いたか?またあのピアノの音が流れてきたんだ。今回は昼間にも響いていたとか。」
「まるで心の中の悲しみや孤独を表現しているような、そんな響きだって言ってたよ。」
「でも、聴くと胸が締め付けられるような気持ちになるんだ。」
街のあちこちでそんな話が飛び交う中、人々はそれが一体何を意味しているのか、どんな人物が奏でているのか、気になって仕方なかった。
そんな中、アルカノーレ達がその噂を耳にしたのは、いつものように、館内で日常を過ごしているときだった。
「ちょっと聞いてくれ、バストン。裏路地のピアノの音だが、噂が広まっているらしい。」
テナーは、音楽の探偵屋として日々人々の困りごとを解決している中で、この奇妙な音の話に引っかかっていた。
バリトンはその情報を受けてすぐに立ち上がった。
「またピアノか…。今回は、ただの噂じゃないようだな。どうやら実際に、あの音を耳にした人々の間で不安や恐怖が広がっている。治安も少し悪化しているみたいだ。」
その言葉に、テナーの表情が少し険しくなる。
「何かがある。あの音は、ただの音楽じゃない。誰かがその音に、何かを込めているんだ。」
◇◆◇
「音楽の探偵屋」として、人々の生活に影響を与える音に関する問題を解決するのが、アルカノーレ達の役目だ。彼らは、音に関する事象を解明し、時にはそれを利用して人々の心を癒すこともある。
だが、今回のピアノの音は、単なる音楽の枠を超えて、何かしらの「意思」や「目的」を持っているような、そんな予感がした。
バリトンはすでに動き出していた。
「すぐに調査を開始しよう。音が示すものが、街にとって何か意味を持つ可能性がある。」
テナーは深く頷き、バスを呼ぶ。
「ねぇ、バス。『ピアノの言霊』について、調査してみようと思うんだけど、一緒に来てくれない?」
「……分かった。」
その言葉通り、アルカノーレ達はすぐに準備を整え、裏路地へと向かうことにした。
市街地から少し離れた裏路地。その静かな場所に足を踏み入れたとき、彼らの耳に確かに響いてくるのは、あの不安を掻き立てるピアノの音色だった。
音は、一度聞いただけで忘れられないほどに強い印象を残す。しかし、その音にただの音楽以上のものが込められていることを、彼らはすぐに感じ取った。
「これは…ただの孤独の歌じゃない。」
テナーの言葉に、バリトンは頷く。
「うん、これは……『音』そのものが、何かを伝えようとしている。強く、切実に。」
バスはその音を深く聴き入り、心の中で答えを探すような表情を浮かべる。
そして、アルカノーレ達はその音源に向かって歩みを進める。ピアノの音が、どこから来ているのか、そして誰が奏でているのかを突き止めるために…。
街の夕暮れ。
バリトンとテナーは、町の裏路地に響くピアノの音色に引き寄せられ、音の出所へと足を運んだ。音楽が絶え間なく流れるその場所は、まるでこの世界の一部であるかのように、街の夜を染めていた。
「この音、どこか……」
テナーはぼんやりと呟き、バリトンは無意識に息を呑んだ。ピアノの音は、優しさに満ちていながらも、どこか切なさと孤独を感じさせる。
彼らが耳にしたそのメロディには、明らかにただの旋律ではない何かが宿っていた。
バリトンは眉をひそめ、何度も音の調べに耳を澄ます。
「この曲、まるで……僕たちが感じていた孤独のようだな」
テナーは目を閉じ、深く吸った息を吐きながら、音の中に潜む複雑な感情を読み取ろうとした。どこかで聞いたことのあるようなメロディ――そう、まるで自分たちの心の中でずっと鳴り響いていた音楽のようだった。
彼らはその音に導かれるように、音の出どころである建物の前に立つ。ドアの隙間から漏れる光とともに、ピアノの音がさらに強く響き、二人は一瞬ためらう。だが、好奇心が勝り、静かにドアを開けてその中を覗き見る。
そこにいたのは、信じられない光景だった。
ピアノの前に座っているのは、彼らに似た顔立ちをした青年。すらりとした体格、そして無垢な瞳。
だが、その顔にはどこか寂しさと苦しさが滲んでいた。その姿はまるで、彼らのもう一人の姿、もしくは失われた一部のようで、バリトンとテナーは言葉を失う。
「こいつ、俺たちに似てる……?」
テナーはその青年に一歩近づき、まるで彼の歌声に引き寄せられるように、心が震えるのを感じた。バリトンは隣でそれを見守りながら、ただ黙って頷いた。
彼らは無意識のうちに、その青年に自分たちの心の奥底に眠る何かを見ているのかもしれなかった。
青年の指が鍵盤を優しく打ち鳴らす。その音は、まるで彼自身の心の叫びのように、静かな部屋を満たしていく。だが、その旋律が広がる中、テナーとバリトンは、まったく別の感覚を抱えていた。
彼らが耳にしたのは、ただの音楽ではない。響きは心の奥深くに触れ、どこか不安と切なさを呼び起こすようだった。
『僕、足りないな…何かが足りないんだ。こんな風に考えても、どうしても上手くいかない。』
その言葉を誰かが放ったわけではない。ただ、音として、無言のうちに二人の心に染み込んでいく。まるで自分たちの思いを代弁するかのように、音楽が鳴り響く。
その旋律には不安と焦燥が込められており、まるで誰かが泣いているような、心を締め付けるような響きだ。
『こんなにも苦しい。日々が、まるで押し潰されるみたいに僕を飲み込んでいく。』
バリトンはその音色に心を揺さぶられた。メロディの中に、何か痛々しいほどの重みを感じていた。彼の胸がざわつき、息を呑む。
テナーもまた、背中に冷たいものが走るような気がして、思わず身を固くした。
『どうしても、優しさだけじゃこの世界は救えないんだ。』
その音は、だんだんと強く、そして深くなっていく。言葉と共鳴する音は、まるで夜の闇のように広がり、空気を変えていく。
テナーは耳を澄ませ、無意識のうちにその音の源へと引き寄せられていた。その旋律が自分の心の深い部分に触れているようで、彼はその場から動けなかった。
『何かを間違っても、正しいって言い切れるような場所なんて、どこにもないんだよ。』
ピアノが奏でる言葉がもたらす重さに、バリトンは少し息を呑んだ。音楽が、彼の胸の中の痛みを引き出し、じわじわと心を圧迫していく。今まで感じたことのないような感覚だった。
何かしらの「共鳴」を感じていた。だが、彼の中でその音楽が響いている理由がわからない。
『そして、僕もまた、言葉だけで何かを伝えようとして、全然うまくできない。』
その音色に満たされながら、テナーはふと目を細めた。音の中に、切なさや後悔、そしてどうしようもない迷いが込められているのが感じ取れた。それは、まるで他の誰かが生きた証が音となり、今ここに流れ出しているかのようだった。
その瞬間、音が少し途切れ、再びピアノの音が響き渡った。その音が、まるで誰かが訴えかけるように、二人の心に強く訴えかける。
そして、ついにその時が来た。二人が音楽に完全に引き込まれた瞬間、その演奏者の姿を目の当たりにすることになった。
彼らの前に現れたのは、見知らぬ青年。姿勢を正し、集中した表情でピアノを弾くその少年。
彼の顔にはどこか懐かしさを感じるが、それ以上に強く感じられるのは、彼が発する音楽そのものにこもった何か――それが二人には強烈に響いた。
その青年の姿を見た瞬間、バリトンは思わず息を呑んだ。「まるで…自分を見ているかのようだ」と、胸の中で呟いていた。テナーもまた、同じような感覚を抱いていた。
青年の顔立ち、そしてその音楽から溢れ出るエネルギー――その全てが、彼らにとってはあまりにも「似ている」ように思えた。
「こいつ…」
バリトンは声を詰まらせながら、言葉を失っていた。青年が奏でる音楽に、心を奪われたからだ。だが、それ以上に気になるのは、この見知らぬ青年の存在そのものだ。
彼が奏でる音の中には、まるで自分たちの内面が映し出されているかのような不思議な感覚があった。
「……誰だ、こいつは?」
テナーもまた、青年に近づこうとしたが、体が動かなかった。その音楽に引き寄せられ、何かしらの「答え」を求めているような、奇妙な感覚が彼の体を支配していた。
見知らぬ青年が弾くそのピアノの音――その旋律は、二人にとっても、彼ら自身の心の奥にあるものが呼び起こされたかのようだった。それが、何か大きな運命の始まりであることを、二人はまだ知らなかった。
翌日、再び夕暮れの路地裏へ足を踏み入れたテナーとバリトン。あの時聴いた青年のピアノの音色が忘れられず、もう一度その響きに触れたくてたまらなかった。二人は無言で、どこか遠くを見つめながら歩き続ける。まだ夕日が沈みきっていない、薄暗い道を進みながら、何も言わずにただ音の行方を追っていた。
そして、再びその音が聴こえ始める。前回と同じように、最初は静かに、しかし、何かが違うと二人は感じ取った。その音色は、どこかひねくれた、歪んだ響きを持っていた。軽やかさはなく、どこか暴力的で、鋭い、冷たさを含んでいた。
鍵盤が激しく叩かれる度に、響き渡る音は胸の奥を刺すように痛みを伴い、まるで心を引き裂くような圧力を感じた。それは、音楽というよりも、まるで誰かが心の中で叫んでいるかのような、息苦しさを伴う音だ。
『大人になるということは…』
音の中から、囁くような声が響いてきた。
その旋律が、不意に二人の心を揺さぶる。まるで言葉のように、音が心に語りかけてくる。だが、その声は穏やかではない。鋭く、苦しげで、まるで誰かが自分を傷つけているかのような感覚に襲われる。
『大人になるということは、本心を隠して仮面を被り、社会のルールに従って生きていくこと。――それは、虚しい芝居を演じるようなものだ。』
その言葉が、二人を包み込む。音は不協和音が絡み合うように、どこか解決できない葛藤を抱えたように響き、無理に心を引き裂こうとする。
テナーの呼吸が荒くなり、バリトンの目がかすむ。音が胸を押し潰すように響き、彼らの思考をかき乱していく。
(何この声……いやっ!頭が……)
『私たちは、心の奥底では孤独や虚無感を抱えながら、社会的な成功や幸福を求めて生きている。』
その音がひどく耳障りになり、心の中で何かが崩れ落ちる感覚が広がる。バリトンはその音の中に、自分の心の空洞を見つけたような気がして、思わず顔を歪める。
そのピアノの音が、まるで彼自身の心の奥に深く入り込み、傷口を抉っているようだった。
『愛する人さえも、その傷を見せたくないがために、嘘をつかなければならない。』
音の中から漏れ聞こえるその言葉に、テナーは目を見開いた。まるで自分を見透かされたような、ありのままの心が晒されているような感覚。
自分が今まで押し込めていた、恐れていた部分が、あの青年の奏でる音に乗せられて突き刺さる。
『社会の常識や道徳は、時に人を縛りつけ、心の自由を奪ってしまう。』
音が激しく打ち鳴らされるたびに、二人の胸は締め付けられ、心が焦げ付くような痛みを感じた。音の波がどんどん強くなり、二人の精神を無理に押しつぶしていくような感じがした。まるで心が引き裂かれ、無理に形を変えさせられているような、不安定な感覚が支配していた。
『それでも、私たちは大人として生きていくために、この虚しい現実を受け入れなければならない。』
その音が最後に一際鋭く響くと、二人は同時に息を呑んだ。音はまるで雷鳴のように鳴り響き、二人の心に重くのしかかる。
バリトンの目の前が暗くなり、テナーはしばらく息ができないような感覚に襲われた。どうしてこんなに胸が痛むのだろう?
まるで自分たちがその青年の言葉を、音を、すべて受け入れてしまったような錯覚が二人を支配していた。
しばらく沈黙が続いた。音は止まってしまったが、その余韻が二人の心をしっかりと締め付けている。
どこかから自分たちの鼓動が聞こえるように、静かな夜の中で息を呑みながら立ち尽くす二人。
テナーはその場に座り込んで、肩を震わせながら唇を噛み締めた。バリトンは目を閉じ、指先で軽く頭を押さえる。二人とも、その音楽が与えた衝撃から、しばらく立ち上がれなかった。
その音楽が、まるで自分たちの中に潜む暗い部分を引きずり出すように、無理やりに心を抉り取ろうとした。だが、それは同時に、彼らに一つの答えをもたらしたようにも感じた。
彼らは、この青年がただ者ではないことを確信した。そして、あの音楽を奏でる人物こそが、何かの鍵を握っていると、直感的に感じ取った。
館の扉を開けて、二人が入ると、すぐに異常な空気が広がっているのを感じた。バリトンは息を呑んだ。館の中には、今まで感じたことのないような冷たい空気が充満していた。
テナーはすぐに倒れ込むようにその場に座り込み、顔を手で覆って、震えながら何かに怯えていた。まるでその目の前に何か恐ろしいものを見てしまったかのように、彼は体を小さく丸め、深く息を呑んでいた。
「テナー…」
バリトンは立ち尽くしたまま、ひどく動揺しているテナーを見つめた。
「おい、テナー、大丈夫か?」
だが、テナーは返事もせず、ただひたすら顔を覆って震えている。声も漏らさず、ただひたすら震え続けていた。
あのピアノの音を聴いたあの日から、彼の心に何かが引き裂かれたような感覚が続いている。それが、今も彼の内側から囁き続けているようだ。
バリトンは深く息を吸い込み、必死にバスの方を見た。
「あの…あの青年が…あれは…」
「どんな青年だ?」
バスは立ち止まって二人を見つめた。バリトンの目には焦りが浮かび、額に汗が滲んでいる。
「彼は…」
バリトンは言葉を詰まらせた。どうしてもその言葉を口にするのが怖かった。だが、それでも彼は言わなければならない。彼の精神が持っている限界の中で、それを絞り出すしかなかった。
「自分たちと瓜二つな青年が、あのピアノの前で…」
バスはその言葉に驚きの表情を浮かべた。
「瓜二つ?お前たちの姿に?」
「そうだ…」
バリトンは肩を震わせながら続けた。
「でも、あの音楽が…。彼の奏でる音楽は冷酷で、攻撃的なんだ。まるで…俺たちを試すように、俺たちの心をひねくり回すような、そんな音楽なんだ。」
その瞬間、テナーが顔を覆っている手を少しだけ動かし、涙を流しながら呟いた。
「あの子が歌ったら…どうなるんだろう……」
その言葉に、バリトンの心はさらに締めつけられた。テナーがそう言ったのは、あの青年の音楽が彼の心に、どれほど強く影響を与えているのかを物語っていた。彼はすでに、あの音楽に心を奪われ、引き寄せられている。
「テナー、しっかりしろ!」
バリトンは彼の肩を揺さぶるようにして叫んだ。だが、テナーはまるで無意識のように、無反応のままだ。
その時、館の中に再びピアノの音が響き始めた。それは、冷徹で無機質な音が、空気を裂くように耳に届く。
テナーはその音に反応するように、わずかに震えながら顔を上げ、その目はどこか遠くを見つめている。
「やめろ…」
バリトンはその音を耳にした瞬間、心の中で叫んだ。しかし、身体が動かない。彼の体がその音に引き寄せられ、少しずつその音楽に取り込まれ始めている。
「もう…逃げられないんだ、バリ…」
テナーはうわ言のように呟いた。彼の目には、すでにその音楽が彼を捕え、精神を蝕んでいく様子が映っていた。
「あの子の声が、もう僕の中に入ってきてしまう…」
バスはその様子に恐怖を感じ、急いで二人を支えようとした。だが、その瞬間、テナーが突然立ち上がり、足元がふらつく。
「この音が…止まらないんだ。」
テナーは震えながら言った。
「どうしても…止まらないんだよ……!」
その言葉が胸に刺さり、バスの心臓は重くなった。館の中で流れるその音楽は、すでに彼らの内面にまで浸透し、音だけではなく、心そのものを操ろうとしている。
その音楽が続く限り、彼らは元の自分を取り戻すことはできないだろう。何かが、彼らをこの館に縛りつけている。そして、バスはその真実を、まるで呪いのように感じ取っていた。
テナーの精神は、次第にその音楽に引き寄せられていった。最初は軽い動揺だけだったが、次第にその波は彼の全身を飲み込み、心の中に深い溝を刻み込んでいく。
彼が声楽堂の上に立つたびに、思いもよらぬほど強烈な衝動が襲い掛かる。あの青年の奏でるピアノの音が、頭の中で繰り返し鳴り響き、彼を支配していった。
「やめて…」
テナーは声を震わせながら、足元がふらつくのを必死で抑えようとした。しかし、ピアノの音が彼を無意識のうちに引き寄せ、無理に声を出すことすらできなくなっていた。
目の前に広がる音楽が、まるで生き物のように彼を捕らえ、心の中を切り裂いていく。
「テナー、大丈夫か?」
バリトンが心配そうに声をかけるが、テナーはそれに応えることもできず、ただ苦しげに息を呑むだけだった。彼の目は虚ろで、まるで何も見ていないかのように空を見上げている。
「もう無理だ…」
テナーはぼんやりと呟いた。
「音が、頭の中で響いてる。あの青年のピアノが……僕を壊していく……」
その言葉を聞いたバリトンは、自分の胸に痛みを覚えた。彼が感じていたのは、ただの音楽ではなく、心そのものを揺さぶられるような、暗く冷たい力だった。
テナーがその音に引き寄せられ、崩れていく様子を目の当たりにして、彼もまたその音楽の恐ろしさを痛感していた。
「テナー…」
バリトンは肩を支えながら、必死に彼を支えようとするが、テナーはただ震えながら、目の前の音楽に耳を塞ぐように顔を伏せた。
その時、音楽がまたしても彼の耳に入ってきた。遠くからでも、まるでピアノの旋律が指先を触れるように、細かく彼の神経を揺さぶるような音が聴こえる。すぐにその音が、テナーの頭の中で拡大し、声として形を取る。
それは、もはや音楽という枠を超えて、テナーの精神に直接訴えかけてくる言葉のようだった。
「やめてぅ……!」
テナーは悲痛な叫びをあげるが、その声はすぐに途切れる。彼の体は、まるで音楽に引き寄せられるように震えて、まともに立っていられなくなる。
声楽堂の上に立っていた彼は、もう足を支えきれず、膝を折って倒れ込んだ。
バリトンはその光景を見て、心の底から恐怖を感じた。これ以上は見ていられないと、彼はとっさにテナーを抱きかかえ、耳を塞いでその音楽を遮ろうとした。
しかし、音楽はどんどんと彼の周りで渦巻き、彼の体にしがみついてきた。
「このままじゃ、テナーが完全に壊れてしまう…」
バリトンは深く息を呑み、何とか冷静さを保とうとした。
「あの青年の音楽が、彼をこんなにまで追い詰めているんだ。どうして、こんなにも…」
その時、バスが黙って二人を見つめていた。その顔に、決意が浮かんだことをバリトンはすぐに感じ取った。
「どうした?」バリトンは、彼の表情を見て言った。
「もう、このままでは済まないってことか?」
バスは一瞬黙ったが、やがて冷徹な眼差しで答える。
「俺たちは、あの青年を放っておくわけにはいかない。このままでは、テナーも俺たちも、あの音楽に支配されてしまうだろう。」
その言葉に、バリトンの胸に痛みが走った。確かに、あの青年の音楽には異常な力があった。それが、今では二人を壊し始めている。
だが、どうすればその音楽から解放されるのか、どうすればあの青年を止められるのか、バリトンにはまだ答えが見つからない。
「俺たちがあの青年に立ち向かうしかない…」バスは静かに言い、強く頷いた。
「そして、この音楽を…止めなければならない。」
バリトンもまた、その決意を感じ取り、硬く唇を噛んだ。
「でも、どうやって?」
「それは、これから考えることだ。」
バスは短く答えると、再びテナーの方に目を向けた。
「だが、まずは彼をなんとかしないと。もう音楽が彼を飲み込んでる。」
その瞬間、再びピアノの音が館の中に響き渡った。それは、今までとは比べ物にならないほど強烈で冷徹な音だった。バリトンはその音に引き寄せられるように、胸が締め付けられる思いがした。
「あの音楽を止めなければ…」
バリトンはつぶやき、必死に立ち上がった。バスもまた、強い覚悟を決めた表情で立ち上がり、二人はテナーを支えながら、その音楽に立ち向かう決意を固めた。
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