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リビングには心地よいヒーリング音楽が流れていた。丁度いい音量で、会話の邪魔にもならない。凪が千紘の家で暮らすようになってから早いものでもう3ヶ月が経った。
凪はゴロンと寝転がったまま、仰向けで顔の前に掲げたヘアカタログをパラパラと捲っている。
「俺ブリーチしようかなぁ」
「明るくするの?」
「んー、グレーっぽいのがいい」
「凪の明るいの見たことないからちょっと興味はあるけどね」
そう言いながら千紘は、自分の膝の上に頭を乗せている凪の毛先を触った。凪はヘアカタログを退かして、下から千紘の顔を見る。
「お前が暗い方が似合うって言ったじゃん」
「うん。似合うよ。俺が似合う色に染めてるんだもん」
「もう色変える。飽きた」
「お客さん対応しなくなったら自由になったね」
「あー、別に客相手にしてた時もリピーターばっかだったから自由にしてたけどな」
凪はソファー前に置かれたテーブルに手を伸ばす。千紘と一緒に食べていたスナック菓子だ。寝たままの体勢ではほんの少し届かなくて、見かねた千紘が1つ取った。
それを凪の口元に持っていけば、凪は何も言わずに口を開けた。そこに菓子を放り込んだ千紘は、自分の口にも同じように運んだ。
「千紘はずっとその色じゃん」
「俺のトレードマークなの。でも凪がグレーにするなら俺もそうしようかなぁ。お揃い」
「お揃いそんなにいらないだろ」
凪はそう顔をしかめるが、凪と千紘が着ている部屋着もテーブルに並べてあるマグカップもお揃いである。
買い物に行く度に千紘が「お揃いにするーっ」と2つ買うものだから、生活用品のほとんどがお揃いとなっていった。
「えー。凪の髪染めた後に考えよう。次も切るでしょ?」
「切る。前髪伸びてうぜぇ」
凪は仰向けのまま自分の前髪を持ち上げた。視界が広がると、千紘の美しい顎のラインが見えた。
鼻が高いのもよくわかるし、まつ毛がバサバサと広がっているのも見える。
「お前、下から見ても顔整ってんの嫌味だな」
「何それ、褒めてんの?」
「褒めてんじゃん」
凪が人差し指を上に向けて、ちょいちょいと動かす。眉を上げた千紘が身を屈めると、凪が腕を伸ばして千紘の後頭部に触れた。
2人の距離が縮まり、唇が重なり合う。千紘のサイドの髪が凪の頬をくすぐった。
唇を離すと、凪はごろんと千紘の方に向きを変えて両手を千紘の腰に回した。ギュッと力を込めた凪の腕。凪の頬には贅肉が一切ない千紘の腹筋が触れていた。
「今日はどっこも行かない?」
千紘はゆっくり凪の頭を撫でながら尋ねた。せっかく2人とも休みだというのに朝からこうしてまったりとしている。千紘としてはこうして凪といる時間も好きなのだが、念願のデートに出かけられることも嬉しくてたまらないのだ。
「んー、どっか行きたいとこあんの?」
「新しくできた中華のお店は行きたいんだよね」
「……中華食いてぇ」
「ね。夕食はそこ行こうね」
「うん」
「あ、あとシーツ買いに行かなきゃだった」
「……ふーん」
「凪が汚したから」
「お前だろ」
「凪だよ」
お互いのせいにしながら急に2人で黙った。昨夜は激しく燃え上がったから、汗と体液とでシーツが汚れたのだ。朝になっても冷たさが残っていた。千紘はそれを朝から洗濯したのだが、黒いシーツは精液がこびりついて取れなかった。
もはやそれもどちらのものかはわからない。
「黒やめればいいんじゃね?」
「部屋のインテリア的に暗い色がよかったんだよ。いっぱい買っておけばいいか」
「んー……」
凪は以前のように「じゃあしなきゃいいじゃん」などとは言わない。それも、千紘が凪のペースに合わせるようになったからだ。あんなに精神的に不安定だった2人は、あの日から更に2週間体を重ねることなく十分な食事と睡眠をとった結果、完全に回復したのだった。
よく食べて良く眠れるようになった。人間の3大欲求の内2つが満たされたら、自然と残りの1つである性欲だって湧いてきた。凪に関してはセラピストを辞めたことから女性に触れる機会はなくなった。
もともとプライベートで関係を持っている女性もいなかったたため、その性欲を満たす相手はいない。それでも自然と女性を抱きたいとは思わなかった。
凪は、セラピストの仕事が嫌になったのではなく、純粋に女性に興味がなくなってしまったのだと思った。
それはなんとなく悲しくもあったが、抱きたくても抱けなくなったセラピスト時代に比べたら気持ちは楽だった。
しかし、男性に興味が移行したわけでもない。男性に抱かれたいとも思わないし、抱きたいとも思わない。
それなのに千紘に自ら触れるのは嫌ではなく、むしろ嬉しそうに微笑む千紘にちょっかいを出すようになった。
時々は頭を撫でてやって、キスしてやって、抱きしめてやる。そんなふうにしながら、凪の気が向く時にだけ千紘に触れた。
その度に千紘は幸せそうな顔をする。凪の言いつけを守って、千紘がその先に進もうとすることもなかった。
すると凪は気付いた。性欲を満たすためには、自分からGOサインを出さなければならないことに。
今までは凪がやめろといっても千紘の方から迫ってきたから、情事後も全て千紘のせいにすることができた。けれど、全てを凪経由にしたら抱かれる時も凪から誘わなくてはならなくなったのだ。
女性が相手の時はよかった。自らが抱くのだから主導権は自分にあったし、優越感もあった。しかし、自分が抱かれるとなると千紘にお願いするのは癪だし、自ら責めたとしてもどこまで手を出していいのかわからない千紘は困惑し、最後までできない可能性がある。
性欲を満たすためだけに千紘の体を利用した時も楽だった。「体貸せ」というだけでよかったし、千紘だったらイケるのかどうかの試験という口実もあったから。
それがそうもいかなくなった。体だけ求めるのはガッツいてきた時の千紘と同じだし、自分が嫌がっておきながらそれを千紘にするのもおかしい気がした。
グルグルと、どうしてこんなにも千紘とセックスすることに手段を選ばなければならないのかと考えた。
その答えは、千紘の気持ちも尊重しなければ……と思ったからだ。
え? 俺、千紘のこと好きとかないよな……。
不意にそう考えた瞬間、凪は急に顔を赤くしてその場にしゃがみ込んだ。