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千紘が仕事でいない家で、凪が1人で過ごすことも多かった。仕事の時間が合わなければ当然だった。
その間、物色するつもりはなかったものの特にどこを触ったらダメと制限されていたわけでもないため、暇つぶしにクローゼットを開けたり洗面所に並ぶスキンケア用品を見たりした。
そんな中で千紘が勝手にお揃いにした生活用品が目に入る。凪の匂いだからとただ嗅ぐ用に買った香水が大事に保管されていたり、凪がもう使わないと言ったアクセサリーが宝物のように小さな箱に入っているのを見つけた。
千紘がいなくても、千紘からの言葉がなくても千紘の家にいるだけで凪に対する愛情は沢山伝わった。
千紘に対する自分の感情に向き合おうとすればするほど、千紘からの愛情を受け取ったらどう返していくべきなのかを考えた。
自分が傷付けられたとずっと被害者でいたが、自分が千紘を傷付けた自覚もあった。千紘が自分に好意を寄せていることをいいことに、ワガママを言っていることもわかっている。
それでも千紘は他の男に目移りすることなく、健気に凪の言いつけを守っている。今まで付き合った女性は、凪の気を引くために他の男性の影を匂わせる者もいたし、実際に浮気をすることもあった。
そんな時は恋人としてどうのという以前に人間として信用できないと思ったし、そんな人間と一緒にいる必要もないと思った。
凪から別れを告げられ、ようやく泣きながら謝られても到底許せる気にもならなかった。
しかし、千紘は違う。どんなに凪が突き放そうとも、彼には凪しか見えていない。ゲイであっても同性からモテる千紘にはいくらでも相手はいるだろうが、それでも凪でなくては嫌だという。
凪は恐らく生涯でこんなにも自分のことを好きでいてくれるのは、千紘くらいのものだろうと思った。
セラピストの仕事ができなくなって落ち込んだ時も、涙を流した時も、弱い自分を受け入れてくれる。
女性の前でカッコつけるように、変な見栄を張らなくても素の自分を好きでいてくれる。千紘と一緒にいて妙に心地良いのは、そんな千紘に寄りかかって甘えられるからだと気付いた。
そして千紘は、凪が甘えたら甘えた分だけ喜んでくれるのだ。
凪は1人ぼーっとしながら、早く千紘が帰ってこないかなぁ……と待つ日が増えていった。
凪の変化に気付いたのは千紘も同じだった。あんなにも近寄るだけで「近い」と突っぱねていたのに、千紘が料理を作っているとそっと後ろから近寄ってきて千紘の肩に顎を乗せたりした。
「凪……?」
「飯、なに」
「今日はチキンのハーブ焼き」
「そんな洒落たもん作れんの?」
「うん。柔らかくできると思う。お肉好きでしょ?」
「好き……」
耳もとで聞く凪からの好きは破壊力抜群である。目線は調味料を合わせながら、千紘は下唇を噛んで顔を赤らめた。
……え? なんか、凪が可愛いんだけど。今日は何だ? いつもの気まぐれ? にしては体が密着してるような……。
あんまりくっつかれると俺も我慢できなくなっちゃいそうなんだけどな。
そう思いながら、反応しかけた下半身をキッチン台へ押し当てた。その後も凪はずっと千紘が料理するのを眺めていた。
いつもならふらっとリビングのソファーに戻ったり、テレビを付けたりするのにいつまでも千紘の側にいたのだ。
それに対して何かを言えば、凪はバツが悪そうに離れていってしまうかもしれない。そう思った千紘は平然を装って料理をし、時に凪に話しかけては世間話をした。
その後の食事も何か変だった。黙々と食べていたかと思うと「これ好きかも。また食べたい」と呟いた。
今までだったら、千紘が何を食べたいか尋ねても「何でもいい」と答えることが多かった。
それなのに凪の方からまた食べたいと言ってくれた。それだけだって嬉しいのに、食事が終われば「俺が洗うからいい」なんて言いながら食器を洗い始めた。
千紘は凪のために家事をするのは全く苦痛ではなかった。むしろ、凪に喜んでもらいたくて仕方のない千紘は、至れり尽くせりの環境を与えたかった。
手持ち無沙汰になってしまった千紘は、凪が洗った食器を隣で拭き始めた。初めて2人で一緒に家事を行った瞬間だった。
千紘は、常に凪が隣にいるような気がした。とても嬉しいことなのだが、今までとはまるで違う態度に少し戸惑った。
お湯張りをセットしてリビングのソファーに戻ると、凪はスマートフォンを触っていた。誰かに連絡をしているのか、調べ物でもしているのか。
特に気にもとめずにその隣に座れば、無言で凪の頭が降ってきた。千紘から凪に擦り寄ることはあっても、凪の方から体をあずけてくることはなかった。
千紘は硬直したまま目を疑った。自分の腿の上に凪の頭があるのだから、どういう状況なのかと思考を巡らせる必要があった。
急に甘え始めた凪にどんな心境の変化があったのかわからないが、千紘にとっては大歓迎である。
何も言わずにただ千紘の膝の上でスマートフォンをいじる。千紘も同じようにスマートフォンを取り出して画面を見つめる。
「なんか自然が多いところでのんびりしたいかも」
凪がポツリと呟いた。千紘は顔を上げて、凪の手元を見る。見えてしまったスマートフォンの画面には、グランピングの文字。
「自然? 緑が多いところに行きたいの?」
「んー。パラグライダーやりたい」
「うん……」
千紘はグランピングと関係あるかな? と思いながら、凪の話を聞くことにした。
「パラグライダーもいいけど、グランピングしたいの?」
「俺、したことない。でも、なんか面倒くさそうだからやっぱ料理は出てくる方がいいわ」
「ああ、そう。じゃあ、ちょっといいところの宿とか」
「温泉? あー……温泉いいかも。それなら金目の煮付けか伊勢海老か」
うーん、と考える凪が可愛くて、千紘はきゅうっと胸が苦しくなる。グランピングをしたいのかと思いきやパラグライダーがしたいと言ったり、温泉がいいと言いながら食事のことを考えたり。
全くやる気がなかった凪が、やりたいことを見つけたのは千紘も嬉しい。そして千紘も凪が一緒だったらなんでもやってみたかった。
特に2人で旅行だなんて非現実的で最高にいいと感じた。
旅館でもとってゆっくり温泉に浸かって美味しいものを食べてのんびりと過ごせる。家で一緒に過ごせる今だって十分幸せだけれど、それとは違った空間が味わえる。
それに、なにが嬉しいかといえば、凪の方からその提案をしてくれていることだ。
一緒に温泉だなんて意地でも行かないと言ったであろう凪が、1つの候補として挙げているのだ。千紘が期待しないわけがなかった。
「一緒に……行く?」
千紘は断られる覚悟をして凪に聞いた。もしかしたら1人でいくつもりでいるのかもしれないし、いい旅館でもあったら千紘に紹介してもらおうと思っただけかもしれない。
過度に期待をすれば、想像と違った時にひどく落ち込むだろう。だから、保険のために最悪の事態も考えて慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「……休み取れんの?」
凪は手を下ろして視線だけ千紘に向けた。無表情だが、休みが取れるなら一緒に来てもいいけどと目が言っているようだった。
「と、取れるよ。俺、自分のお客さんだけだからシフト管理は自分でしてるし。来月までは予約いっぱいだけど、再来月はどっか空いてるなら連休にすることもできる」
「再来月か。まあ、そのくらい期間があった方が宿も取りやすいだろうな」
さらりとそう言った凪に、千紘は目を見開いた。
「じゃ、じゃあ……宿は俺が取るよ」
「千紘が? ……わかった」
凪は暫く考えていたようだったが、素直に頷いた。凪と一緒に住むようになってから、一緒に入浴することはなかった。
しかし、温泉に行くとなったら一緒に入ることになるかもしれない。などとこれもまた少し期待する。
他人の目がある大衆浴場なら、千紘に何かをされる心配もないし、一緒に入浴してくれるかもしれない。もしくは、客室風呂付きの部屋を取れば……と考えていた。
ぼーっとしているとゴロンと向きを変えた凪が、千紘の方を向いて顔を寄せた。それからぎゅっと抱きついてきたものだから、千紘は咄嗟に両手を持ち上げて降参の姿勢をとった。
迂闊に触れたりしたら、また凪が機嫌を損ねるかもしれないし、出ていくと言うかもしれないからだ。
千紘はそのままじっと身動きを取らずにいた。
えーっと……。これはどういう状況なんだろう。凪が膝枕してきたことさえ理解が追いついてないのに、抱きついてくることなんてある?
まさか、見た目は凪だけど中身は違う誰かに入れ替わったとか!?
そんなファンタジーみたいなことある!? いやいや、でも今までの凪なら絶対に自分から抱きついてきたりしないし……。
千紘はこのままどうしたらいいのかわからないまま、頭の片隅で泊まる宿のことを考えていた。