まだ部屋の中は暗い。行ってしまったわ、そろそろ夜明けなのね。もう隣の温もりはなくなってしまった。四日以内は運が良ければよ。
年老いた使用人に気をつけろと、ハンクは言っていた。老公爵の手の者ということよね。ハンクの使っていた枕を掴み抱きしめる。ハンクの匂いが残ってる。私がハンクの子を授かっていると報告されたのね。叱責?警告?ハンクは何を言われるの、私は何かされるの?腹にゾルダークの子がいるのよ、危害は加えないはず。でも、産んだ後は?私は厄介な存在よね、ハンクの弱みになってる。ハンクの邪魔になるのなら消されても仕方ないけど、それはハンクが許さないわ。老公爵は何を考えているのか、一度も会ったことはない。腹を撫で、明るくなり始めた部屋の中で、私の黒鷲を見つめる。ハンクは必ず戻るわ。私は守られていればいい。
結局眠りに戻ることはできず、朝になってから湯に浸かりたいとジュノに頼んだ。
アンナリアとライナも来てくれて湯が作られ、ジュノが丁寧に私の髪を洗う。綺麗に保てとハンクに言われてから、髪は伸ばし以前より手間をかけ、手入れをしている。肩にはハンクの歯形がある。私にはよく見えないけどジュノがちゃんと痕があると教えてくれる。首には一際、色付いた痕もあるはず。
ハンクはいつも私を想ってくれてる。知ってたわ、毎日感じてたもの。たぶん、腹の子より私を選ぶ。だから私は私を守らなければならない。今ハンクは邸にいない。数日戻らない。カイランを盾にしても私を守る覚悟が必要ね。
湯から上がりライナとジュノが髪を拭いてくれ、乾かす。ハンクの気に入りの香油を塗り込み匂いが満ちる。遅い朝食を寝室で食べて、刺繍をする。丁寧に刺したから時がかかってしまった、戻るまでには出来上がるわ。
王都の端にある宿で腹を満たすため休憩をとる。出立を決めた時点で人数分を用意するよう早馬を出しておいた。出された食事を食べている間に、宿の者に馬の世話を頼み、黙して胃に入れていく。
「雲の様子から雨の心配はないでしょう。何事もなければ日暮れには入れます」
ハロルドの言葉にハンクは頷き、四名に告げる。
「邸に着くまで休憩はとらん」
食事はここで最後だ、馬上で水を飲めばいい。日が暮れても松明を使って進めば、邸に着くだろう。
あれは起きたろうか、不安にさせることを言ったが、警戒しておけば対処できるだろう。あれは敏い。
ハンクは胸に入っているゾルダークの家紋入りのハンカチを親指で撫でる。公爵が持つには余りにも質が劣る布だが、空色は間に合わなかったから仕方がない。
宿で水を補給し馬上に戻る。王都を出れば周りを気にせず馬を駆ける。民家と同等の価値のある馬だ、最後まで持つだろう。
いつものように昼を過ぎた時に、ダントルを連れて花園を歩く。日傘はダントルが持ち、私は花を愛でながら四阿まで歩き、ソーマを見つけた。先回りして待っていてくれたみたいね。
ハンクが花を踏み潰した時に曲がりくねった歩道を歩かなくても四阿にたどり着けるよう庭師に命じた。花を一部分だけ取り払い、景観を損なわないよう考え、近道を作らせていた。
四阿の椅子に座るとソーマが果実水を器に入れてくれる。ソーマとここにいるのは初めてね、毒でも警戒しているのかもしれない。子は狙っていないでしょうに。
「ハロルドが共に行ったの?」
ソーマでは馬で駆けることはできない。
「左様でございます」
冷たい果実水を飲み込む。
「気苦労をかけるわね」
ソーマは黙している。ソーマは馬車を勧めたはずよ。
「キャスリン様、茶会では冷静に対処されたようですね」
ええ、と答える。
「先に聞いていたもの、それぞれの思惑を知っていると、周りがよく見えるのね。アビゲイル様は思いの外、執拗だったけど言葉だけの攻撃は効きもしないわ。ハインス姉妹が何を仕掛けるかわからなくて、でも花を見に行くと言い出した時、警戒したわ。それまでは王女が間に入っていたから何もできないと安心してたの。大きな声に目を向ければ、ウィルマ様の嵌めていた大きな宝石付きの指輪が回されていたのよ、手のひらの方にね」
私はソーマに手のひらを見せ、ここよと指をさす。
「よくご存知でしたね」
ふふ、と笑い、種明かしをする。
「弟のテレンスのおかげなの。あの子、十の年に図書室に籠ってね、何ヵ月もかけて読破したのよ。面白い書物は家族に教えてくれるの、その中に、暗器の世界、なんて物もあって事細かに語ったのよ。宝石を模して中は空洞で仕込み針に毒、刺すには指輪を回して蓋を開けて相手に触れる。まさか役にたつなんてね。ウィルマ様の指輪が手のひらに見えて、それでダントルに転ばせたの。触らせなければ危険はないもの」
今度テレンスには何か贈ろうと、転んだウィルマ様を見ながら思ったのよね。
「閣下が背後にダントルを置いてくれたおかげよ。私が避ければマイラ王女に刺さっていたかもしれないわ」
ダントルが背後にいなかったら、マイラ王女に刺さろうと私は避けたわ。大事なゾルダークの子を守らなくてはね。
ソーマは頷き、納得したようだ。
「旦那様が戻るまでダントルを居室に置いてください。ジュノも共にです」
勿論ハンクは承知の上よね、否はないわ。私は頷く。居室の長椅子はダントルには小さいのに。
「寝室にジュノを寝かせてもいいかしら」
寝室にも長椅子はあるもの。いくら長い付き合いでもね、気を使うわよ。
ソーマは頷く。
「カイラン様には旦那様がご不在のことを伝えておりません」
ハンクが教えなくていいと判断したのね。
「問われたら答えるの?」
はい、と答える。カイランが事態を知っても何も変わらないものね。特に私からは告げなくていいのね。でも自分だけ知らなかったと気づいたら腹を立てそうね。また泣かれても困るわ。
「夕食は私の部屋に運んでくれる?大人しくしているわ」
承知しました、と言ってソーマは四阿から離れていく。ソーマも大変ね、ハンクの心配と私の心配もしなくてはならないのだから。
「ダントル、長椅子で眠るのよ、眠れる?」
「眠ると言っても仮眠ですから座るか、床に腰かけますよ」
ダントルを休ませてあげれないわね。
「閣下が戻ったら休んでね。倒れては困るわ」
ダントルは首を傾げ答えない。信頼できる者を増やしたいわね。
食堂に父上とキャスリンが現れない。トニーに聞いても知らないようだ。使用人に命じてソーマを呼ぶ。
「父上とキャスリンはどうした、共にいるのか?」
まだ、夜も始まらない時に二人で共にいるのか、キャスリンに何かあったのか。
「旦那様はゾルダーク領へ呼ばれて向かいました。キャスリン様は自室で休まれておいでです」
「お祖父様に何かあったのか?」
父上が向かうなんて、何かあったのか。いつ発ったんだ、外は静かだったのに。
「大旦那様に呼ばれて向かいました」
お祖父様に呼ばれた?そんなこと今まで聞いたこともない。まさか、キャスリンのことが知られたか、それなら僕のことまで報告されただろうな。
「なぜ僕に報せない!」
わかってる、僕に報せたところで何も変わらないからだ。頼りにならない、そう思われている。
「キャスリンの調子は悪くないんだな?彼女は安全なんだな?」
ソーマは黙って僕を見ている。危険なのか、お祖父様はお怒りなのか?
「お守りしています」
そうだろうな、キャスリンに何かあったら父上は激昂するだろうしな。赤毛の騎士など守れなかったら殺されるかもしれない。
父上はいつ帰ってくるのか、キャスリンは昨日茶会でひどい目にあったのに、今日から父上がいないなんて不安だろう。
もう太陽が沈む、半時前にはゾルダーク領に入った。もうすぐ暗闇に包まれ前には進めなくなる。停止の合図を送る。
「松明を作れ」
「旦那様、道が見えません。馬を走らせるのは無謀です」
「走らん。歩く」
無事に戻ると約束した。数刻歩けば真夜中には着くだろう。
「ついてこれるか?」
一日馬上で揺られたんだ、疲れていることなどわかってる、ついてはいけないとは言えんだろうが、覚悟を聞きたい。
四人が同時に頷く。それぞれ松明を持ち、暗闇が訪れるまで進む。
ゾルダーク公爵領の邸は川や森まである広大な敷地だ。何年も訪れてはいない。
暗闇が始まった。馬から降り松明を掲げて歩き出す。雨の匂いはしない、あれは今何をしている。守られていてくれ。
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