コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
湊はソファの端に腰かけ、目の前のコーヒーテーブルに置かれた冷めた紅茶をじっと見つめていた。部屋の中は重苦しい静寂に包まれ、時折、菜月の小さなため息だけがその静けさを破った。湊の胸の内では、賢治への嫌悪感と怒りが渦を巻いていた。
賢治の不倫行為は、もはや疑いの余地がない。湊はそれを確信していた。菜月の横顔をそっと盗み見ると、彼女の目は赤く、頬には涙の跡が残っている。いつも明るく笑顔を絶やさない菜月が、こんなにも打ちひしがれている姿を見るのは初めてだった。湊の心は締め付けられるように痛んだ。
(このまま曖昧にするなんて、絶対に許さない)
湊は拳を握りしめた。賢治の裏切りは、菜月だけでなく、彼女の家族、友人、そして何より湊自身に対する侮辱だった。菜月が望むなら、協議離婚の手続きを進める。慰謝料の請求はもちろん、財産分与では賢治に一文たりとも渡さないつもりだった。賢治の実家、四島工業の名門一家にも、愚かな息子の尻拭いをさせる必要がある。湊の頭の中では、すでに法的手続きや交渉のシナリオがぐるぐると回っていた。
だが、それ以上に湊の心を支配していたのは、郷士への思いだった。菜月の父である郷士は、菜月を誰よりも大切にしていた。父親がこの事実を知れば、賢治を許すはずがない。湊は父親の鋭い眼光を思い出し、ぞくりとした。
「湊、ありがとう…こんなとき、そばにいてくれて」
菜月が小さな声でつぶやいた。彼女の手は震え、膝の上でぎゅっと握り合わされていた。湊は言葉を探したが、喉が詰まって何も言えなかった。ただ、そっと菜月の肩に手を置いた。彼女の体は、まるで壊れ物のように儚く感じられた。
その時、突然、エントランスのインターフォンが鳴り響いた。甲高い電子音が静寂を切り裂き、湊と菜月は同時に飛び上がった。心臓がドクンと大きく脈打つ。
「ちょっと待って」
菜月が立ち上がろうとするのを、湊は素早く手を挙げて制した。
「僕が対応する。落ち着いてて」
湊は菜月に軽く微笑みかけ、インターフォンの呼び出しボタンに手を伸ばした。モニターには、赤い制服を着た郵便局員の姿が映っていた。路肩には、郵便局の赤い軽自動車が停まっているのが見えた。
「綾野さん、小包をお届けに参りました」
モニター越しに、落ち着いた男性の声が聞こえた。郵便局員の手には、白い小さな箱が握られている。湊は一瞬、眉をひそめた。こんな時間に小包? しかも、最近の状況を考えると、ただの配達とは思えなかった。
「すみませんが、周りに誰かいますか?」
湊は慎重に尋ねた。郵便局員は少し驚いた顔をしたが、すぐに答えた。
「管理人さんならいますが他には誰も見当たりませんね」
「分かりました。今、開けます」
湊はインターフォンのボタンを押し、エントランスのドアを解除した。菜月が隣で不安そうに湊を見上げた。
「どうしてそんなこと聞いたの?」
彼女の声には、かすかな恐怖が混じっていた。湊は唇を引き結び、低い声で答えた。
「また如月倫子が来るかもしれないからね」
その名を口にした瞬間、湊の表情は一層険しくなった。如月倫子ーーーー賢治の不倫相手とされる女性。湊はまだ彼女に直接会ったことはなかったが、菜月から聞いた話から、彼女がこの騒動の中心にいることは明らかだった。倫子の大胆な行動や、賢治との関係を隠そうともしない態度が、湊の怒りをさらに煽っていた。
ドアがノックされ、湊は素早く立ち上がった。ドアを開けると、若い郵便局員が丁寧に頭を下げ、小包を手渡してきた。
「綾野菜月様ですね。こちらでお預かりください。サインをお願いします」
湊は小包を受け取り、菜月の代わりにサインをした。白い箱は軽く、速達と印が押されていた。不審に思いながらも、湊は礼を言ってドアを閉めた。部屋に戻ると、菜月がソファから身を乗り出していた。
「何? 誰からの?」
彼女の声には、好奇心と不安が入り混じっていた。湊は小包をテーブルに置き、じっと見つめた。箱のサイズは手のひらに収まるほどで、シンプルな白い包装紙に包まれている。テープで厳重に封がされており、開けるにはカッターが必要そうだった。湊の目は小包に釘付けだった。
この小さな箱が、なぜか不穏な予感を運んできているように感じられた。部屋の中は再び重い静寂に包まれたが、今度はそこに緊張感が加わっていた。小包はテーブルの上で、まるで何かを秘めた生き物のように静かに佇んでいた。湊の頭の中では、さまざまな可能性が駆け巡っていた。賢治の不倫、倫子の存在、そしてこの謎の小包――すべてが繋がっている気がした。湊は菜月の手を握り、静かに言った。「大丈夫。絶対に解決するから」菜月は力なく微笑み、湊の手を握り返した。