テラーノベル
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【前半:跳躍】
ロンドンの街並みは、一夜にして地獄へと変貌を遂げた。
昨日までそこにあった平和は砂の城のように脆く崩れ去り、逃げ惑っていた人々は今や、醜悪な赤い繊維を纏った怪物――「ロストール」へと成り果てている。
月明かりさえも赤く濁る夜。
街を埋め尽くす絶望の群れを見下ろすように、アランは尖塔の屋根に立ち尽くしていた。
心臓が耳の奥で激しく脈動する。
だが、その音とは裏腹に、アランの意識は凍てつくほどに研ぎ澄まされていた。
溢れ出しそうになる殺意と飢餓感を、冷徹な理性が押さえ込む。
アランは自分の存在を確かめるように、冷たい夜気を深く吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
刹那、右腕の黒い硬質繊維が、生き物のように蠢き、脈打つ。
繊維が密度を増し、より鋭く、より強靭な「獲物を屠るための形状」へと再構築された。
刃のように変容を遂げる右腕。
アランは強い眼差しで眼下の群れを睨み据えると、一切の躊躇なくロストールが徘徊する中心に、その身を投げ出した。
全身のエネルギーを、細く、しなやかな脚に凝縮させる。
着地の衝撃で石畳が円状に砕け散り、砂塵が舞い上がる。
徘徊していたロストールたちが、その不自然な轟音に反応して一斉に首を曲げ、眼球すら繊維で覆われた頭をこちらへ向ける。
ロストール達は、形容しがたいほど醜悪な形に口元を歪め、アランを獲物と判断した。
もはや、後悔も絶望も、ここには置いていない。
あるのは、目の前の敵を「喰らう」という純粋な意志だけ。
アランは地面を蹴った。石畳を粉砕するほどの勢いで突進し、黒い腕を一閃させる。
【後半:ノーチラス号の残滓】
数刻後。
テムズ川の湿った風を切り裂き、アランはノーチラス号の古びた扉を蹴開けるようにして帰還した。
部屋の隅、ランプの仄かな灯りの下で待っていたリーザが、弾かれたように立ち上がる。
「アラン……!」
駆け寄る彼女の嗅覚が錆臭い血の匂いを嗅ぎ取った。
アランの少年らしい繊細さを感じさせる滑らかな白い頬には、どす黒い血糊が醜くこびりついていた。
「……触るな。汚れるだろ」
アランは短く突き放すと、力の抜けた体を引きずるようにして椅子に深く沈み込んだ。
戦闘時の鋭さは消え、そこにあるのは、ただ酷く疲れ果てた少年の姿だ。
リーザは拒絶されても怯まず、温めたタオルを持って彼の隣に膝をつく。
震える手で、彼女はアランの頬の汚れを優しく拭い始めた。
「ごめんなさい、アラン……。あなたが戦う度に、この腕は…」
リーザの視線が、アランの右腕に落ちる。
今は腕の形を取り戻しているが、酷い熱を帯び、黒い繊維が不自然に浮き出ている。
彼女はその腕を、壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。
「……謝るなよ、リーザ。お前が心配することじゃない」
アランはわざと素っ気なく言い放ち、目を逸らす。
だが、その声には先ほどまでの殺意はなく、どこか縋るような危うさが混じっていた。
リーザの指が、そっとアランの首筋に触れる。
もう片方の手には、「マザーズ・クライ」と呼ばれる薬液が入った注射器が握られていた。
「準備、できてるわ。……少し、眠りましょう?」
その言葉に、アランは微かに肩を震わせる。
彼は拒むように、けれど導かれるように、静かに目を閉じた。
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