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「出て行って」いつからおかしくなったんだなんて問われても分からない。
物心ついたころからずっとこうだったような気もするし、つい最近からだったような気もする。
情緒不安定ですぐにヒステリックになる母
ろくに仕事も行かず家にも帰ってこない父
家族でどこかに行った記憶なんて、それすら一緒に食事をとったことすら記憶になかった。
いつからか何も痛くなくなって、感じなくなって、胸の中ががらんどうになり涙さえ出なくなった。
いやな記憶も、嬉しい記憶も何かの拍子に思い出すのが怖くなって自然と全て抜け落ちていった。昔の事なんてもうほとんど覚えてない。大事だった人の名前も顔も声も、全部忘れてしまった。
胸の中にぽかんと穴が開いているような感じ、喪失感というのだろうか。
何を失くしてしまったのかも忘れてしまったがいつも胸のどこかでそれを探している気がする。
──「絶対に迎えに行くから」
温かい体温、甘く歪んだ関係、唯一の心の拠り所、小さな手。
これはいつの記憶なのだろうか。
『…ん』
すっと何かの拍子に私は目覚める。意識が完全に浮上しきっておらず夢と現実の境目をさ迷っているかのようにフワフワとした感覚が体から抜けない。
『…あれ』
いつも香るムッと鼻につくような煙草の匂いや酒の匂いはせず、代わりに暖かいお日様のような優しい匂いが鼻先に漂ってくる。
…あぁそうか、そうだここは。
『…わぁびっくりした』
不意に背後から感じた気配に、振り返る間もなく抱きしめられた。
「…○○?」
イザナさんのとろんと眠気の残った掠れた声で寝起きでぼんやりとしていた頭が覚醒する。
そうだ、ここは私の家じゃない。
『おはよう…ございます』
「…ンー……」
まだなかなか夢と現実の区別をつけることができないのかイザナさんは私の背中に頭をすりつけながら唸っている。ちょっと痛い。
「…理想の朝」
『何言ってるんですか』
ひっついてくるイザナさんの体を無理やりどけ、うーんとその場で体を伸ばすと関節が錆びたようにぎこちなく軋む音が鳴る。
久しぶりによく眠れたような気がする。いつもはだるい頭がすっきりとしている。
「おはよ」
『ぐぇっ……おはようございます』
せっかく立ち上がった私の体はイザナさんの下敷きになるように抱き締められ身動きができなくなってしまった。
「…オレ今日出掛ける」
『超いきなりですね、話の出し方下手くそですか』
不意打ちのようにいきなり告げられたその言葉に1つの考えが浮かんでくる。
“出掛ける”、つまり今日イザナさんはこの家からいなくなる。なら…
「…逃げられるなんて思うなよ」
『…ハイ』
“逃げられる”なんてこの状況では到底思えない。
だけどそれと同じくらいここから“逃げたい”なんて感情が浮かんでこない、
「…いい子」
そう呟き、イザナさんの端正な指が私の髪を優しく、それでいて慣れていないのか少し不器用な手つきで撫でる。
撫でられるなんていつぶりだろう。
この家に来てから“初めて”よりも“懐かしい”という感情を感じることが多くなった。
声も、顔も、一つ一つの動作すべてが。刻まれていた思い出が思い出せそうなそんな曖昧さ。
「だいすき、すき。…○○は?」
ゆっくりと身体を起こし抱きしめてくるイザナさんにふいにそう問いかけられる。
『えっ私?……私は』
いきなりの質問に一拍間を置き考える。ほんの少しの時間のはずがこの瞬間だけは永遠とも思える長い時間に感じた。
『…分かりません』
答えが弁解のように空々しい響きになる。脳内が真っ黒になって何も考えられなくなる。
本当に分からないんだ。“好き”という感情が。“イザナさん”という人物が。
「オレは大好き」
イザナさんのサラサラな髪と花札のピアスが首筋に当たり少しくすぐったい。
答えの分からない感情を抱き続ける私とは反対に素直に愛を伝えてくれるイザナさん
『…ごめんなさい』
何となく申し訳なさを感じ、意味もなく消え入りそうな声で謝る。
「ごめんじゃなくて“好き”がいい」
『えぇ……』
そんな意味の無い謝罪は甘い空気に溶け、消えていった。