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流石に一日一回も投稿しないのはまずいな、と思ったので速達で書きました。語彙がない。
ヨコハマの夜を支配する湿った風が、カーテンの隙間から滑り込んでくる。 リビングの灯りは消したままだ。暗闇に慣れた私の瞳は、玄関の鍵が回る微かな音、そして、廊下に伸びる見知らぬ「光」の影を正確に捉えていた。
「……あァ、起きてたのか」
低く、どこか他人事のような声。 中原中也が帰宅した。その肩には、夜の街の喧騒と、私のものではない誰かの残り香がべったりと張り付いている。 彼は私と目を合わせようともせず、乱暴にジャケットを脱ぎ捨てた。その襟元に、夜光塗料のように鮮やかな紅い痕が残っているのを、私は見逃さない。
「中也、おかえり。今日は随分と、……甘い香りがするね」
私はソファに座ったまま、精一杯の道化を演じて微笑む。心臓の奥が、冷たい氷の杭で打ち付けられたように軋む。彼は鼻を鳴らし、洗面所へと向かった。
「……別に、どうでもいいだろ。お前には関係ねぇよ」
関係ない。 あぁ、そうだね。今の私たちを繋ぎ止めているのは、かつての相棒という腐れ縁と、この狭い部屋の契約書だけだ。中也の瞳から、私を慈しむ熱が消えて久しい。彼は今、私の知らない誰かの肌に触れ、私の知らない誰かの名前を呼び、私の知らない幸福を享受している。
中也が浴室へ消えると、私はふらふらと立ち上がり、彼が脱ぎ捨てたジャケットに触れた。 指先に移る、安っぽい香水の匂い。それが私の肺を、内側から腐らせていく。
(……痛い。痛いよ、中也)
叫びたい衝動を、私はいつものように自分の腕で塞ぐ。 浴室から漏れ聞こえる水音を聞きながら、私は救急箱から一本のカミソリを取り出した。寝室の隅、月明かりだけが頼りの暗闇で、私は手慣れた手つきで左腕の包帯を解く。
そこには、もう新しい傷を刻む余地もないほど、無数の白い線と、生々しい赤紫色の痕が入り乱れていた。中也が「外」を作るたびに、私は自分の腕に「内」を作った。彼が私を忘れていく速度に合わせて、私は自分の存在をこの痛みで確認し続けなければならなかった。
――ツ、と。 鋼の刃が、震える皮膚を容易く裂く。
一瞬の沈黙の後、紅い雫がゆっくりと、蛇のように腕を伝い落ちる。 「……っ、ふ、……」 熱い。この痛みこそが、今の私に与えられた唯一の「中也との繋がり」だった。彼が私を傷つける代わりに、私が私を傷つける。彼が私に無関心である分だけ、私はこの痛みに執着する。
溢れ出した血が、床の絨毯に黒いシミを作っていく。 私はその紅い色を眺めながら、恍惚とした絶望に浸っていた。 中也は気づかない。彼は私がこうして壊れていく音にさえ、もう耳を貸さない。私がどれだけ深く自分を切り刻んでも、彼が明日、また別の「誰か」の元へ行くのを止めることはできない。
「……愛してくれなくていい。でも、私を独りにしないで」
掠れた声は、夜の闇に吸い込まれて消えた。 私は汚れた腕を新しい包帯で隠し、何事もなかったかのように、血を拭う。 鏡に映る私の顔は、死を目前にした病人よりもなお、酷く不格好に笑っていた。
中也、君が私を捨てたあの日から、私の世界は止まったままだ。 君という重力を失い、空っぽになったこの身体に、せめてこの痛みだけを充たしていたい。
カミソリを隠し、私は再びソファに横たわる。 浴室から出てきた中也の足音が近づいてくる。彼は私の横を通り過ぎ、寝室へと向かう。 一瞥もない。言葉もない。 ただ、冷たい風だけが、私の隣を吹き抜けていった。
リビングに充満する、淀んだ空気。 太宰がソファで死んだように眠っている。その左腕、昨日よりもさらに分厚く巻かれた白い包帯の層を眺めながら、俺は手にしたウィスキーを静かに喉へと流し込んだ。
太宰は、俺が「外」で誰かを抱き、自分への関心を失ったのだと信じ込んでいる。 救いようのない馬鹿だ。あんな安っぽい香水の女、抱くどころか名さえ覚えていない。首筋の紅い痕も、俺が自分で鏡を見ながら、爪を立てて刻んだ偽物だ。
だが、その「偽物」の報せを一つ持ち帰るたびに、太宰の瞳は宝石が砕けるように濁り、その細い腕には新しい紅い川が刻まれる。
「……はは、最高だな」
俺は、奴の頬を親指でそっとなぞる。 太宰治という男は、完全無欠の天才だ。だが、その天才ゆえに、自分に向けられる悪意には敏感でも、自分を「生かすために壊す」という歪んだ執着には、驚くほど盲目になる。
俺がまともな愛を注いでみろ。こいつは三日で飽きて、霧のように消えてしまうだろう。 太宰をこの部屋に、俺の隣に繋ぎ止めておく唯一の方法は、奴の精神を絶望で削り、俺という「不実な毒」なしでは一秒も耐えられない廃人に作り替えることだ。
俺がわざと家に帰らず、見知らぬ誰かの影を纏って帰宅する。 そのたびに太宰が浴室でカミソリを振るい、血を流し、痛みに耐える。 その痛みこそが、奴にとっての「俺との絆」になる。 自分が傷つくことでしか、俺の不在を埋められない。 自分が壊れることでしか、俺を繋ぎ止めておけない。 そう思い込ませる。洗脳に近い、静かな飼育だ。
俺はソファの横に跪き、太宰の包帯を解いた。 現れたのは、まだ血の滲む新しい傷。それから、古びた無数の線。 俺は、その傷口の一つ一つに、熱い口づけを落としていく。
(……愛してるぜ、太宰。だから、お前は一生、俺が嫌いになったと思い込んで怯えてりゃいい)
俺の腹の内は、死んでも明かさない。 「すべてはお前を独占するための芝居だ」なんて、正解を教えてやるほど俺は優しくない。 お前は永遠に、答えのない暗闇の中で、俺の愛を疑い、俺の裏切りを呪い、そして血を流し続けろ。
不意に、太宰の睫毛が震えた。
「……、……ちゅう、や……?」
虚ろな瞳が、ゆっくりと俺を映す。 太宰は、自分の腕を愛おしげに口づけている俺を見て、一瞬、理解不能という表情を浮かべた。だが、すぐにその瞳には、恐怖と狂気が混ざり合った激しい色が爆発するように広がった。
「やめて、……見ないで……! 来ないで……っ、中也、君は、あっちの、綺麗な人たちのところへ、行けばいいじゃないか……!!」
太宰が叫び、俺を突き飛ばそうとする。 その拍子に、巻いたばかりの包帯が解け、傷口からまた鮮血が溢れ出した。 太宰は自分の腕を見て、そして俺の服に残る「偽の女の匂い」を嗅ぎ、ついに精神の糸がぷつりと切れた。
「あああああぁぁぁ!! 分からない、分からないよ中也!! 何でそんなに優しくするんだ! 君は私を捨てたはずだ! 別の誰かを愛しているんだろう!? なのに、どうして私のこんな汚い血を……っ! 嫌だ、嫌だ、壊れちゃう、私が私でなくなっちゃう……っ!!」
太宰は、自分の髪を掻きむしり、獣のような悲鳴を上げた。 床をのたうち回り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、支離滅裂な言葉を吐き続ける。 発狂。 自らの知性で制御しきれなくなった絶望が、太宰治という器を内側から食い破った瞬間だった。
「……っ、ふ、あ、あぁ……! 殺して、中也、お願いだから、君の手で殺して! 私が、君の幸せの邪魔をしないうちに……!!」
俺は、のたうち回るその身体を、抗う力をすべて封じ込めるような、強固な重力で抱きしめた。
「……逃がさねぇ。死なせもしねぇよ」
俺は、狂乱する太宰の耳元で、甘く、毒のように囁く。 腕の傷から流れる血が、俺のシャツを汚していく。 俺と奴の境界が、その紅い液体で溶け合い、混ざり合っていく。
「中也……中也、……っ、……っ、」
太宰は俺の胸に顔を埋め、過呼吸気味に俺の服を掴んだ。 俺を憎み、俺を呪い、俺の裏切りに絶望しながら、それでも俺の腕の中でしか呼吸ができない。 この上ない、極上の共依存。
「いい子だ、太宰。お前には俺しかいねぇし、俺にもお前しかいねぇ」
俺は太宰の背中を、優しく、優しく叩く。 腕の傷を癒すつもりなんてない。 むしろ、この傷が一生治らないように、俺は明日もまた「嘘」を纏って帰ってくる。 太宰が、俺という地獄の中でしか生きられない、美しい化け物であり続けるために。
窓の外では、ヨコハマの冷たい雨が降り始めていた。 密室の中で、血の匂いと偽りの香水が混じり合い、二人の怪物は、深い、深い、終わりのない闇の底へと沈んでいった。