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「何だかわからないけど、胸がジーンときたのよ」
前田さん宅でもらった、袋いっぱい猫缶をテーブルの上に広げながら、れれが前田さん宅での不思議な出来事を、身振り手振
り交えてれれ夫に報告している。
さっきから目を閉じて、夢見ごこちな様子のももちゃんが、思わずクスッと笑った。
「ももちゃんは、前田さんちの猫ちゃんと友達だったのかな?」
れれ夫が、冗談っぽくももちゃんに声を掛けた。
ももちゃんは、グルっとのどを鳴らして答えたが、れれ夫の耳には届かなかったようだ。
「そんな訳で、前田さん宅の猫ちゃんたちとうちの猫、猫同士の相性が良いみたいなんで、ちいちゃんが帰ってきた後も、
度々一緒に遊びに来てくださいねって言って下さったの」
「ちいのお陰で良い人たちと知り合いになれたようだね。次は、肝心のちいだ」
「ちいは運が良いから大丈夫よ。前田さん宅で、良い話をいっぱい聞いてたら、ちいのことも心配いらないって気になってきたわ。
何かの本に書いてあったけど、心配してたら、その状況を引き寄せてしまうんですって。
だから、良いことを考えて良いことを引き寄せるのよ」
何のこと? という顔のれれ夫に、
「とにかく、ちいは大丈夫よ!」と自信たっぷりに言い放った。
「そんなに力まなくても、日が暮れてお腹がすいた頃に、ちいは前田さん宅の車庫に、引き寄せられてくるよ」
カリカリカリと美味しそうな音をたて、お皿の中に顔を突っ込むようにしてガツガツとご飯を掻き込む、ちいの丸い背中。
近くには、ちいの匂いの付いたタオルが見える。
ちいの背後から忍び 寄る人影……前田さんだ。
次の瞬間、
ーよし! ちいはめでたく前田さんの腕の中!
僕は、想像の中のストーリーに感動しながら、すっかりその気になっていた。
「ねぇ、今日はこれから庭の掃除をしない?前田さん宅の庭、手入れが行き届いてて、お花の香りもいっぱいで、すごく素敵
だったのよ」というれれの提案に、
「そうだな。花の苗でも植えようか」と、れれ夫が賛成し、二人は近くのホームセンターに、揃って出かけて行った。
僕とももちゃんは、窓ガラスに顔をくっ付けるようにして、改めて我が家の庭をじっくりと眺めてみた。
草も木も、伸び放題のこの庭は、野性味あふれていて、人の手が加わっていない分それなりの風情はあるが、人間の家の庭と
して見た時は、単なる手入れされていない庭でしかない。
夏の間は、黄緑色の葉っぱを広げ、薄い桃色の花を沢山咲かせていたムクゲの木も、今はすっかり葉を落とし、頼りなさげに
ポツンと立っている。
前田さん宅の素敵な庭を見習って、この機会に少し手入れをするのは良いことだと思う。
さて、ちいが帰ってきたら、一番に何を話そうか。話すことがいっぱいあるなぁ……。
そうだ、ちいのお母さんのこと、一番に言わなくっちゃ。
ちいは、お母さんに置いて行かれたんじゃなくって、段ボールに入れられて人間に捨てられたってこと。
ええと、確かちいが不細工だからって理由だったよな。
あ、いや、こんなことは、ちいに言わない方が良いよな。
ああ見えて、ちいは自分のこと、大きくて毛並みも良くてカッコいい猫だと思っているからね。
ちいのプライドを傷つけないように、注意して話さないといけないな。
だけど事実を知ったら、女嫌いのちいだって、気持ちを変えて、ももちゃんと仲良くしてくれるはず。
僕の頭の中で、ちいとももちゃんと僕が再会を喜び、仲良くじゃれ合っている姿が浮かんできた。
嬉しさの余り、僕はうっとりと 目を閉じ、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、想像の中の素敵なシーンに酔いしれていた。
「まるちゃん! まるちゃんったら!」
ももちゃんの声に、僕のゴロゴロと鳴る喉の音が止んだ。
ハッと我に返って目を開けると、ももちゃんが真剣な眼差しで、まっすぐに僕を見つめていた。
僕は今、僕の頭の中で展開していたシーンを、ももちゃんに見られてしまったかと、一瞬慌てたが、そうではなかった。
「ちいさんには、何が何でも無事この家に帰って来てもらいたいの。
だって、私がお母さんたちと会えたのは、ちいさんのお陰だもの」
そうそう、と笑顔で頷く僕。
「そして、ちいさんのお母さんがちいさんを捨てていったんじゃないってこと、教えてあげるの。ちいさん、そのことで随分傷ついてたと思うから」
「うん、ちいの誤解が解けたら、皆で仲良くこの家で暮らせるね」
僕の脳裏に、さっきの(幸せな三匹の猫じゃれ合いシーン)が浮かびかけてきたが、
「で、もしちいさんが、それでも私のこと受け入れてくれなかったら、その時は私、この家を出ていくわ」
ももちゃんの一言で、僕の顔から笑顔が消えた。
ももちゃん、そこまでしなくても……と言いかけた僕の言葉を遮るように、
「ちいさんは、それまでまるちゃんと仲良く暮らしてたのに、私がこの家に来たから、出て行ったんでしょ。だから、私が居
なくなれば、元の生活に戻れるじゃない」
そんな……そんなこと……
「そんなこと、嫌だ! 絶対に嫌だ!」
恥ずかしさも何もかなぐり捨てて、僕は大声を張り上げた。
「いいえ、もう決めたの。だって、もう二度と会えないはずの、お母さんとヨシに会えたのは、ちいさんのお陰。だから、ち
いさんには恩返ししなくっちゃね」
「恩返し? ももちゃんが出ていくことが恩返しなの?」
淡々と話すももちゃんに、僕は一生懸命に気持ちを落ち着かせながら尋ねた。
「そうよ。ちいさんが望むなら、出ていくことが恩返しよ」
そう言い切ったももちゃんの目には、なんの迷いもなかった。
穏やかな秋の陽の光が、窓を通って斜めに差し込んでいる。
庭に住む秋の虫たちが、声を張り上げ歌っている。
れれたちは、今ごろお店で、この庭に植える花の苗を選んでる頃だろうな。
「出ていくって、もしかして前田さん宅に行くの?」
ふて腐れたように、ボソッと口から出た言葉が、少し震えている。
ももちゃんが、ゆっくりと首を横に振った。
「もし、私が前田さん宅に行ったら、どうなると思う? すぐにここに連絡が入って、連れ戻されるに決まってるわ。だから ……」
「だから何?」
思わず、声が大きくなる。
その声にちょっと驚いたももちゃんは、わざと悠長に考える振りをしながら、肉球をペロペロと舐めた後、どこに行こうかしらね~などと、とぼけた声で茶化すので、僕は何だかムッとして、横を向いた。
僕の尻尾が、イライラと左右にせわしなく動いている。
しばらくの沈黙の後、
「私も、ボスの後を追うわ」
僕の尻尾は力なく止まった。うなだれる僕に、ももちゃんが肩の辺りをぺろぺろと舐めてくれた。
「あのね、まるちゃん、これは、ああなってこうなって、こうなったらああする、という仮定の話なのよ。いい? 今は、何も起こってないの。全てはちいさんが帰ってきてからのことなのよ!」
ああ、僕は時々単純な自分が、恥ずかしくなる。
玄関ドアの向こうに、れれ夫婦の足音をキャッチした僕たちの耳が、同時にピクっと動いた。
恥ずかしさをごまかすように、努めて明るい声でももちゃんを誘い、玄関に急いだ。
ちいが出て行って以来、やる気がなくなっていて、しばらく中断していた玄関お出迎えの再開だ。
何度かスリスリした後、スリッパに履き替えているれれたちの足元で、ゴロゴロと仰向けに寝ころび、お腹を見せて、(お帰りなさいの挨拶フルコース版)をタップリとご披露した。
色とりどりの、花の苗と、肥料、花の土まで両手いっぱい抱えた、れれ夫婦は、重いのも我慢して僕たちの長ったらしい出迎えが終わるのを、じっと待ってくれている。
「さぁ、お花いっぱいの庭にして、ちいの帰りを待ちましょう」
「ついでに、伸び放題にしている木の枝も、切っておこうか」
狭い雑木林だった庭が、見違えるように模様替えされていく。
変身していく庭をガラス越しに眺めながら、僕はちいが帰って来た時、どんな風に出迎えたら良いか考えていた。
ーお帰り! っていうのも変だし、何やってんだよぉ。心配させやがって、いい加減にしろよ!
なんて高飛車に突っかかるのも、ダメだし……。
とにかく、ももちゃんのことがあるから、絶対にちいを怒らせないように注意しなくっちゃ。
僕は、襖の近くに置かれている爪とぎ板の上で、心行くまで爪を研ぎながら、ちいが帰ってきた時の 適切な挨拶を考えていた。
陽が傾き始めた頃、やっと庭の模様替えが完成した。
「明日から、ちゃんと水やりしなくっちゃね」
れれ夫婦は、生まれ変わった庭をほれぼれと眺めていた。
そろそろかな? そろそろよね、と何度もももちゃんと確かめ合ってるうち、外はすっかり夜の闇に覆われてきた。
「そろそろ、ちいがお腹を空かせて前田さん宅の車庫に帰って来る頃だと思うんだけど」
台所で茶碗を洗う手を止めて、れれが心配そうな様子で時計を見た。
いつもはバッグの中にしまってある携帯電話が、今はリビングのテーブルのど真ん中に置かれ、チリっと鳴っただけでも、すぐに出られる状態にしてある。
「果たしてこっちの思い通りに、ちいが動いてくれるだろうか」
れれ夫が、それまで誰も口に出さなかった不安を口にした。
外が明るいうちは、気持ちも前向きだったけど、暗くなってくると、なぜか気持ちも沈んでくる。
ーちい、今どこにいるんだ。頼むから、ちいが昨日雨宿りした所に帰ってきてくれよ。
「これから前田さん宅に行って来ようかしら」
「何度も行くのは、迷惑だと思うよ」
「外から車庫を覗いてくるだけよ」
「不審者と間違われたりして」「じゃあ、どうするの!」電話が鳴った。れれが、飛びついた。
「前田さんからよ!」
ーやったぁ。