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「まだなんですって……」
れれが、力なく電話を切った。
前田さん宅では、息子さん夫婦も協力してくれて、あれから何度も車庫に行って確かめているが、お皿にてんこ盛りの猫ご飯もそのままで、ちいが帰ってきた形跡は今のところない、とのことだった。
「もう夜も遅いんで、明日の朝一番に確かめに行きますねって、前田さん申し訳なさそうに謝られてたけど、申し訳ないのは、こっちの方だわ」
れれが、大きなため息をついた。
「本当に、前田さん宅には迷惑のかけっぱなしだなぁ」
もう一度探してくるよ、と玄関に向かうれれ夫に「私も」と、れれが続いた。
二人の足音が、ドアの向こうに遠ざかって行く。
いつもなら、遅くまでテレビの音で賑やかなこのリビングも、今日はシンと静まり返っている。
ただ、壁に掛かった時計だけが 何事もなかったようにカチカチと規則正しい音を響かせ、前に進んでいる。
しばらくして、れれ夫婦が重い足取りで帰ってきた。
「明日の朝、前田さんからの電話を待ちましょう」
「そうだな。夜中にお腹が空いたって、車庫に帰って来るかもしれないし」と答えるれれ夫の声にも元気 がない。
「ちいさん、大丈夫かしら……」
ももちゃんのくぐもった声が、放心状態の僕の耳を通り過ぎて行く。
ーちい、ほんとにこの家から出て行ってしまったの?
ちいが居ない、という事実が、いきなり現実味を帯びて来た。
同時に、寂しさが塊りになって押し寄せて来た。
胸が締め付けられるようだ。
ーちいが、このまま帰って来なかったら……。
「ねぇ、まるちゃん。もしもちいさんが明日の朝までに車庫に戻って来なかったら、やっぱり私たちで探しに行きましょう」
ももちゃんの声に、僕はハッとして顔を上げた。
「外の事は何も知らずに、いきなり出て行ったちいさんのこと考えたら、待ってる場合じゃないわ。急がなくっちゃ。外は、ちいさんの知らない危険がいっぱいよ」
ももちゃんの意見はもっともだけれど。
「だけど、どうやって外に出るの? どこも鍵がかかってて、この家から出ることは無理だよ」
色んなことが次々に起きたから、ずいぶん時間が経ってしまったような気がするけど、
ふたりで家中を走り回って、”どこにも出口がない”ことを確かめたのは、ついこの間のことだった。
「無理じゃないわ。あのね……」
他に誰も聞いていないのに、ももちゃんは僕の耳元に顔を近づけて、内緒の話をするように声を潜めた。
「昼間、れれたちが庭の掃除をしながら、何度もリビングの大きな窓を開けて、出たり入ったりしてたでしょ。
「あれを見て思いついたのよ」
というももちゃんのアイデアは、
「明日、れれがお花に水やりする時に、窓を開けて庭に出るでしょ。その時がチャンスよ。窓が開いたと同時に、れれの足もとすり抜けて、サッと庭に出るのよ」
というものだった。
「モタモタしてたらダメなのよ。絶対に音をたててはいけないし、れれの足にぶつかるなんて事は、もっといけないことなのよ」
ちいの居ない二日目の夜。僕たちが(万一に備えての脱走)を 計画していることなど、夢にも思わないれれ夫婦は、遅くまでリビングでぼそぼそと話込んでいたが、
「まあ、心配していても仕方ないわ。朝になったら前田さんから、見つかりましたよ、って電話があるはずよ」
「そうだな。いや、もしかしたら、うちに帰ってくるかもしれないぞ」などと、強気の言葉を残して寝室に引き上げて行った。
今夜は月が雲に隠れているんだろう。
窓の外は夜の暗闇に覆われている。
ただ微かな街頭の灯だけが、庭の花をぼんやりと浮かび上がらせている。
ーちいは、もう前田さん宅の車庫に戻って来ないかもしれない。
昼間は、前田さん宅に行ったり、そこでももちゃんがお母さんたちと感激のご対面をしたり、次々と嬉しいことが起こったから、このまま良いことが続いていって、ちいが帰って来るような気になってたけど……そうか。れれ夫婦は知らないんだ。ちいが出て行った本当の理由を。
ちいは、ボスを追いかけて行ったんだ。
不安な気持ちが、じわじわと体中を締め付ける。
早く見つけて連れ戻さなければ、ちいはどんどん遠くに行ってしまう。
僕は、思い切って大きく体をねじり、背中から尻尾の先まで丁寧に舐めていきながら、焦る気持ちを落ち着かせた。
「ももちゃん。僕、ちいは、戻って来ないと思うんだ」
隣で同じように体を舐めているももちゃんが、薄緑色の目を黒目でいっぱいにして、驚いた顔で振り向いた。
「あ、車庫にだよ。前田さん宅の車庫には、戻って来ないような気がするんだ」
僕は、慌てて付け加えた。
ももちゃんも、同じ気持ちでいたんだろう。
小さく頷いた後、何も言わず目を伏せ、もう一度体を丸めて白いお腹を舐め始めた。
「そうなったら、僕がひとりで探しに行く。ももちゃんが考えた方法なら、この家から出ていけるはずだ」
ー姫のことは、頼んだぞ。
ボスが残していった言葉が浮かんできた。
出来ればももちゃんには、外に出て行ってほしくない。
僕は、すがるような目で、ももちゃんを見た。
「僕は鼻が良いから、ちいの匂いで探し出してくるから、ももちゃんは家で」
待ってて、と言いかけた僕の言葉を、ももちゃんがぴしゃっと遮った。
「何言ってるの、まるちゃん。前にも言ったように、外の様子は、まるちゃんが知らないうちに変わって しまってるのよ。私が行か ないと、ちいさん探すどころか、まるちゃんが迷子になってしまうわ!」
ももちゃんの勢いに、僕の耳が思わず後ろにペタンと倒れてしまった。
その通りだ。
口調を急に優しくして、ももちゃんが、
「言いにくいことなんだけど……まるちゃん、あのね」と、付け加えた。
「れれが窓を開けると同時に、ササッと足元すり抜けて、気付かれないように外に出るって、言うのは簡単だけど、結構難しいことなの。特に、足の悪いまるちゃんには……」
まるちゃんの足のこと言ってごめんね、と謝るももちゃんに、気にしないでと答えたあと、つい弱音をはいてしまった。
「ももちゃん。実はそうなんだ。僕、足が悪くなってから、素早い動きができなくなってる。だから、ササッとれれの足元すり抜けるなんて、ももちゃんはできそうだけど、僕、ちょっと自信がないんだよ」
僕のヒゲが、しょんぼりと下を向いた。
「じゃあ、私がひとりでちいさん探しに行ってくるわ」
ももちゃんの言葉が聞こえなかった振りをして、僕はピンとヒゲを張り、元気に言い放った。
「僕、練習するよ。大丈夫。徹夜で練習すれば、何とかなるさ! ももちゃん、見本を見せてよ」
確かに、華奢な体のももちゃんにとっては、何のことはない一瞬の動作だが、足が悪いだけでなく、体に無駄なぜい肉をため込み過ぎている僕には、そう簡単なことではなかった。
猫のくせにね。これじゃあ猫失格だ。
やはり本気になってダイエットしておくべきだったよ。
その夜、僕たちは一睡もしないで、ちいが車庫に帰って来なかった場合に備えた特訓を続けた。
朝、まだ空が暗いうちに、れれが起きだしてきた。
僕たちにチラっと向けた顔は、明らかに寝不足だ。
のろのろと食卓の椅子に腰を下ろし、テーブルに頬杖をついたまま、届いたばかりの新聞を、読むとは無しに眺めている。
僕たちも、れれの傍に寄り添って、時々思い出したように毛繕いをしていた。
もうすぐ、前田さんから電話があるはずだ。
どうか、僕たちの嫌な予想が、はずれていますように。
ちいが前田さん宅の車庫に戻ってくれていますように。
僕は祈るような気持ちで、白々と明らんでくる窓の外に目を移した。れれが、大きなため息をつき、新聞を閉じた。
同時に、電話の呼び出し音が静寂を壊した。
恐る恐る手を伸ばし、れれはゆっくりと電話を掴んだ。
「前田さん」
すぐに出ようとはせず、呼び出し音を二度聞いてから、思い切ったように電話に出た。
「……そうですか……いえ、ご迷惑をおかけいたしました。ありがとうございました……」
何度も頭を下げながら、れれは静かに電話を切った。
ーちい、やっぱり車庫には帰って来なかったんだ。
僕とももちゃんが、ゆっくりと頷き合った。
れれが、うつろな目でしばらく宙をぼんやり眺めていたが、いきなり僕に抱きついてきた。
「ちいちゃんが居ないと、寂しいね ……」
抱きついてきて、というより、れれは僕より数倍デカいので、覆いかぶさってきて、という方が正しい。
僕も、れれの肩の辺りに、ぐいと額を押し付け、しばらくそのままでいた。
ゆっくりと外が明るくなってきた。
「連絡あった?」
後から起きてきたれれ夫が、ドアから顔を出した。れれが、ため息交じりに首を横に振った。
「まだ、居なくなったって決まった訳じゃないんだ」
「そうね。またどこかから連絡あるかもしれないわね。前田さんだってこれからも時々車庫を確かめてみますって言ってくださってるし」などと言いながらも、今ひとつ元気の出ない朝ご飯が終わり、れれ夫は仕事に出かけて行った。
てんこ盛りのカリカリご飯を前にした僕たちも、やはり気持ちがご飯どころではない。
ー今日こそ、僕たちがちいを探しに行く。
朝ご飯の片付けの後、れれは掃除機を取り出してきて、のろのろと部屋の掃除を始めた。終わったかと思うと、リビングのソファに座り、新聞のチラシをぼんやりと眺めている。
ー庭の水やりは?
僕たちは祈るような気持ちで、れれを見つめた。昨日は、徹夜で練習したんだ。早く、そこの窓開けて庭に出て行ってよ。
よどんだ空気を打ち消すように、ピンポンの音が来客を告げた。
「は~い」と、玄関に向かうれれの後姿を見送りながら、僕はふと(ピンポン隠れろ作戦)のことを思い出した。
ーあの頃は、楽しかったな……。ピンポンの音と同時に、ちいと競争みたいにして隠れてたな……。
ちい……。
「れれの友達だわ。いつも長々と話し込んでいくあの人間よ」
玄関の様子を確かめていたももちゃんの声が、僕の思い出シーンを中断してくれた。お客様用スリッパに履き替え、この家に上がり込んでくるお客は、
「相変わらずの、猫嫌いオーラよ」
ももちゃんが、尻尾を左右に動かしながら言った。
僕たちは、少し離れた所に丸くなって、来たばかりのお客が、用事を済ませてさっさと帰っていくのを、今か今かと待ち望んでいた。
が、期待に反して、猫嫌いのお客はケーキの入った包みをれれに渡し、れれも
「紅茶にしましょうか」などと言いながら、食器棚から花模様のティーカップを取り出している。
僕たちは、爪とぎをしたり、お腹を舐めたりしながら、焦る気持ちを何とか静めようとした。
ー頼むから、早く帰ってくれよ。
残念なことに、二人の話は延々と続いていく。
は、ちいの事から前田さん宅に行ったこと、息子さん夫婦のことなどなど、次から次へと溢れ出してきて、留まるところを知らないようだ。
猫嫌いのお客も
「そうなの! それで?」とか、
「えー!嘘みたい」などど、合いの手を入れている。
どうやら、この猫嫌いのお客は、ちいが居なくなって寂しがっているれれのこと、元気付けにやって来たようだ。
「ちいちゃん、絶対帰って来るわよ」
などと、僕たちまで元気がでる言葉が聞こえてくる。
これほどの猫嫌いオーラの人間だって、ちいのこと心配してくれてるんだ。
僕は、なんだか不思議な気持ちになりながらも、素直に嬉しいと思った。
「あら、そろそろ仕事に行く時間だわ。話聞いてくれてありがとう。喋ったら、気持ちが落ち着いたわ。ちいのこと、諦めずに探すわ」
れれが、ホッとしたように、両手を上げて伸びをした。
「そうよ。さっきも話したように、知り合いのところの猫なんて、半年も経って帰ってきたんだからね」 猫嫌いの割には、猫に温かいお客が、ニコッと笑って椅子から立ち上がった。
れれが、「私も一緒に出るから、ちょっと待ってて」と、外出用の洋服に着替えるため、自分の部屋に入って行った。
猫嫌いのお客は、僕たちのこと何も気にしていない様子で、庭の花を眺めている。
外出用に変身したれれが、リビングに戻ってきた。
「庭、ずいぶん綺麗になってるじゃない」と、お客に感心されて、れれはやっと大切なことを思い出したようだ。
「忘れてた! 水やりしなくっちゃ! ああ、だけどもう時間ないわ」
時間を忘れてお喋りに高じていたれれは、「帰ってからね」と言い残し、猫嫌いのお客と一緒に玄関に向かった。
「そうだ!れれがドア開けた時に、思い切って突っ走ろう」
僕とももちゃんは、お腹が下に付くまで体を低くして、そっと廊下を進んでいった。
れれと猫嫌いのお客は、僕たちが背後から忍び寄ってることなど、全く気付かない。
ーれれがドアを開けると同時だね。
ー止まらないで、思い切り突っ走るのよ。
れれが、ドアノブに手をかけた。僕たちは息を止め、体を低くし、体中をバネにしたまま、ドアを睨みつけた。
背筋に緊張が走る。
次の瞬間、
「あら、猫ちゃんたち、ここでお辞儀をしながら見送ってくれてるわ」
猫嫌いのお客が、後ろを振り返った。
驚いた僕たちは、はじかれた様に 大慌てで起き上がり、何事もなかったように、お腹を舐めはじめた。 脱出計画中止!
「そうなの。玄関出迎えや、見送りは、気が向いた時にやってくれるのよ」と、答えるれれに「気が向いた時っていうのが、気分屋の猫らしいわね」と、猫嫌いのくせに分かったようなことを 言っている。
目の前でドアが大きく開き、二人はゆっくりと出て行った。
外から、ガチャっと鍵の閉まる音がした。