コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「本当はね、あれは予備だったんだ」
実家から尽のマンションに帰って来てすぐ。
尽はスーツの内ポケットから、無残に破られた書類とともに、無傷な書類を手渡してきた。
「もしもの場合に備えて一応、ね?」
「えっ?」
尽から受け取ったのは、どちらも見覚えのあるモノトーン調の猫柄の婚姻届で、破れた方は白紙。
無事な方には天莉と尽が一緒に書いた署名捺印がしっかりとあって。
尽はあの時、三人の目の前であえて白紙の方を破ったらしい。
その事実を突きつけられた天莉は、戸惑いを隠せなかった。
「じゃあ、どうして……?」
素直になり切れなかった天莉から、本音を引き出すためのデモンストレーションで予備の方を破り捨てたのだとしたら、全ての話が丸く収まった後で、いま天莉が手にしている方を取り出しても差し支えなかったんじゃないだろうか。
天莉は、てっきり尽が破ったものがいま無事な方で、あれ一枚こっきりしか婚姻届は用意されていなかったと思っていたから。
だからあの場はそのまま天莉の両親へ〝結婚の許しを得る〟というごくごく普通の顔合わせのみで退去したんだろうと解釈していたのだ。
だが、違ったらしい。
「――本当に理由が分からない?」
尽に小さく吐息を落とされて、天莉はますます混乱してしまう。
尽の真意が知りたくて、分からないなりに手元の書類をじっと見つめて、アレコレと考えを巡らせて。
そうして一つの結論に行きあたった天莉は、愕然として項垂れた。
もしかして、尽は天莉と結婚したくなくなったのではないだろうか。
だから、土壇場になって記入済みの書類を取り出すのをやめたのでは?
そう思い至ったら、やはりあの場で尽のことを本気で好きになってしまったと告げてしまったことがいけなかったのではないかと思い至った天莉だ。
「私……」
我知らず、手にしたままの紙片を握る指先に力がこもる。
視界がぼんやり霞んで見えるのは、泣きそうになってしまっているんだろうか。
(ダメ。いま泣いたらあれは嘘だって笑えなくなっちゃう。早く顔を上げて、あれは本心じゃなかったの。両親の前でのお芝居だったのよ?って取り繕わなくちゃ)
そう思うのに、全然うまくいかなくて。
天莉はすぐそばに立つ尽へ視線を向けることが出来ないまま、ただただ立ち尽くすしか出来ない。
うつむいて黙り込んでしまった天莉に、尽が小さく吐息を落とすのが聞こえた。
天莉はその溜め息が尽からの最後通告のように思えて、ビクッと肩を震わせる。
「常、務……わた、し……」
一刻も早く誤魔化さないといけないのに。
声を出そうと口を開いたら弱々しく声帯が震えて、余計に涙を誘発するみたいに鼻の奥がツンとした。
「天莉……」
とうとう業を煮やしたように尽が天莉の手に触れて……。
ギュッと握りしめたままだった書類を天莉の手指から引き剥がすようにして奪い去ってしまう。
「ダメ……!」
今、あの書類を尽に取られてしまったら、もう二度とお目に掛かれない気がして。
天莉はこらえきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちるのも構わず、尽の方を見詰めて彼の手に触れた。
尽は、天莉の頬を伝う涙を認めると、至極困ったように眉根を寄せてから……それでも天莉から逃れるようにスッと身を引いてしまう。
そのまま天莉から離れて、書類をリビングのテーブル上へ置きに行ってしまった尽の背中を見詰めながら、天莉は彼へと伸ばしたままの手が、所在なく引っ込められないまま固まっていた。
***
「天莉。キミは絶対勘違いをしているよね」
書類を手放すなり即座に踵を返して大股で戻ってきた尽にギュッと抱き締められた天莉は、頭上からそんな言葉を投げかけられた。
天莉は、尽がほんのり身に纏った甘やかな香水の香りを吸い込みながら「勘、……違い?」と尽の言葉をオウム返しする。
「ああ、勘違いだ。だが……どうやら俺は時々ひどく言葉が足りないらしくてね。――不安にさせたなら謝るよ。済まない」
実際問題尽は幼い頃から思い立ったら説明するより先に動いてしまうところがあって、直樹からもよく『説明してから動け』と叱られている。
「今のは……書類があったらキミを抱きしめる邪魔になりそうだったから先に避けさせてもらっただけなんだ。――せっかく二人で書いたのに、汚れても困るだろう?」
先ほどの行動をそう説明してから、尽は天莉の頭頂部にチュッとリップ音を響かせて口付けを落とした。
「天莉。その反応から察するに、キミは大方俺が天莉との結婚自体を考え直したくて、あの場で婚姻届を出さなかったとでも思ってるんだろ? けど……本当の理由はそうじゃないからね?」
尽の胸元へ密着した額に、彼の心地よい低音ボイスの振動を感じながら聞いてから、天莉はギュッと両手に力を込めて尽から少しだけ距離をあけた。
そうしておいて、すぐそばの彼を真っ直ぐ見上げる。
「違う、の……?」
恐る恐る問い掛けたら「バカだな」と吐息を落とされて、涙を親指の腹で拭われる。
「その反応、正直物凄く心外なんだけど。ねぇ天莉。俺の言葉がそんなに信用出来ない?」
穏やかな声音でそっと聞かれて、天莉は何と答えたらいいのか分からなくて戸惑った。
もちろん、尽のことは信じたい。
信じたいけれど……偽装の関係である以上、天莉が本心を告げたことはご法度だったようにしか思えなくて。
「私たち、利害の一致で結婚するって約束だったのに……。私が本気になってしまったって言ったから……、嫌になった、んじゃ……ない、の?」
思っていることを震える声音で口にしたら、まるでそれが真実になってしまいそうな恐怖に見舞われて、身体が小さく震えてしまった天莉だ。
そんな天莉を再度ギュッと抱き締め直すと、尽が静かな声音で宣言した。
「そうだね。その約束は終了だ、天莉」
「えっ?」
尽の言葉に、天莉は彼から突き放されたような気がしてソワソワと身じろいだ。
だけど――。