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防波堤の隙間
アルバイトが終わったのは、
いつもより少し遅い時間だった。
身体は正直で、
早く帰って風呂に入りたい。
普段なら、
そのまま車を走らせる。
寄り道なんて、
しない。
それなのに。
コンビニの明かりが、
やけに目に入った。
気づけば、
駐車場に車を停めていた。
理由は、
分かっている。
素直に、
帰りたくなかった。
オーディオを下げ、
スマートフォンを手に取る。
まだ、
触らなくていい。
そう思いながら、
画面をつける。
通知には気づいていた。
菜月。
『お仕事、お疲れ様です。
お子さま、いらっしゃるんですね』
胸の奥が、
少しだけ詰まる。
会話は、
もう挨拶を超えている。
それが、
分かる。
返したい。
でも、
軽くは返せない。
子どものことは、
大事な防波堤だ。
家庭。
日常。
守ってきたもの。
そこに触れれば、
波が入ってくる。
引き返せる。
まだ、
戻れる。
そう分かっているのに、
視線は、
前を向いている。
画面を閉じ、
深く息を吐く。
……アルバイト中も、
ずっと考えていた。
考えなくていいはずなのに。
ずっと、
この一文が残っていた。
スマートフォンを開く。
入力欄。
弱みは、
見せすぎない。
でも、
嘘もつかない。
選ぶのは、
その間。
――ありがとうございます。
はい、子どもがいます。
可愛い盛りの5歳の女の子です。
打ち終えて、
指が止まる。
これ以上は、
書かない。
それ以上は、
まだ、
向こう側だ。
ーーー送信。
画面が切り替わる。
その瞬間、
気づく。
ぶりかえしていた小雨が、
止んでいた。
雲の切れ間から、
薄く街灯の光が落ちる。
大げさな変化じゃない。
でも、
確かに違う。
防波堤の隙間から、
片足を出した。
水は冷たくて、
靴の先が、
少しだけ濡れた。
それは心地良くもあり、
底がわからない気持ち悪さもあった。
まだ、
引き返せる。
完全には、
入っていない。
それでも、
もう、
戻る方向は見ていなかった。
エンジンをかける。
ウインカーを出し、
車を走らせる。
いつもの帰り道。
ワイパーが雨を払いきったあとのガラスは、
思っていたより、ずっと透き通っていた。