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第七章 学園異世界転移編
【現実世界・都内/警察関係者向け医療施設】
消毒の匂いが、鼻の奥に残っている。
でも――この部屋の空気は、普通の病室より“重い”。
窓の外では、朝の車の音が流れていた。平日。通勤。いつものはずの音。
なのに、ハレルの胸の奥だけが、ずっと警戒したままだ。
ベッドの上で、日下部奏一がゆっくり瞬きをした。
まぶたが上がりきるまで、時間がかかる。目を開けても、焦点が合わない。
「……っ」
喉が鳴る。乾いた音。
ハレルは反射で一歩近づいて、それから止まった。
近づきすぎると、こちらが“確定”してしまう気がして。
枕元の椅子に座っていた木崎が、短く息を吐く。
「起きたな。……無理に喋らなくていい」
口はいつも通り乱暴なのに、声だけが慎重だった。
日下部の視線が、ハレルのほうへ滑ってくる。
その目が、何かを探している。
顔じゃない。名前でもない。もっと“座標”みたいなもの。
「……雲賀……」
日下部の唇がかすかに動いた。
「……匠……さん……」
ハレルの胸が、ひゅっと縮む。
父の名前。
ここで、その言葉が出ると思っていなかった。
「……知ってるのか」
ハレルの声が、自分でも驚くほど低かった。
日下部は、眉間に皺を寄せる。思い出そうとして、痛そうな顔になる。
「直接……じゃない……」
「会社……の、外……で……」
言葉が途切れ、指先がシーツを掴んだ。
「……“外から見てる人”……そう言われた……」
木崎が、鼻で笑う。
「外から見てる人、ね。あの人らしい言い方だ」
ハレルは何も言えなかった。
父の名前が出た事実だけが、胸の奥で熱になる。
その時、部屋の隅のテレビが小さく音を立てた。
ニュースのテロップが流れる。
――世界各地で「現実ではない景色」が目撃される件。
――路地の壁が一瞬、石畳に見えた。
――夜の窓に、知らない塔の影が映った。
画面の中の映像は荒く、誰も決定的な証拠を出せていない。
でも、ハレルは分かる。
“気のせい”で済ませていい段階は、とっくに過ぎている。
木崎がリモコンで音を落とした。
「今日、学校行くんだろ」
「……うん」
「ユナのコア、持ち番は?」
「今日は俺」
ハレルの足元のバッグ。
そこに、ユナのコアカプセルが入っている。
重さは変わらないのに、存在感だけが増していく。
まるで「ここにいる」と主張してくるみたいに。
日下部が、弱い声で言った。
「……気をつけて……」
「……向こうは……若い……のを……」
言い終える前に、日下部は苦しそうに目を閉じた。
木崎がすぐに看護師を呼びに行く。
ハレルは、バッグの肩紐を握りしめた。
(若いのを)
(……実験体)
胸元の主鍵が、ほんの少し熱を持つ。
合図みたいに。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都/解析室】
薄暗い部屋に、青白い光が浮かんでいる。
紙でも石でもない、“数字の板”みたいな表示。
ノノ=シュタインの前に並ぶそれらは、刻々と形を変えていた。
「……んー、増えてる」
ノノが髪をかき上げる。顔は眠そうなのに、目だけが鋭い。
「一個二個じゃない。波が面で来てる。……嫌な広がり方」
イヤーカフ越しに、リオの声。
『今どこだ?』
『オルタスパイアの片付け中。アデルも一緒』
ノノは軽く頷く。
「王都。解析室。いつもの場所」
言いながら指先を走らせる。数字の粒が組み変わり、“一点”に集まった。
「ねえ、リオ。今、現実側の揺れが急に強くなった。人が集まる場所ほど反応が大きい」
『人が集まる場所……』
「うん。大きい建物。区画がまとまってる。そこが、引っ張られてるみたい」
イヤーカフの向こうで、アデルの声が重なる。
『引っ張られる……誰かが触っている可能性は?』
「高い。たぶん、“実験”の続き。……やめてほしいけど、やってる」
ノノは一拍だけ沈黙して、それから言い足した。
「セラ、聞こえてる?」
空気が少しだけ冷える。
答えは音じゃなく、気配で返ってきた。
ノノは息を吸う。
「じゃあ、こっちも準備する。リオ、アデル。
今のうちに戻れる距離にいて。変化が来たら、たぶん一気に来る」
『分かった』
『私も同意する。こちらも急ぐ』
通話が切れる。
ノノは表示の一点を見つめた。
“そこ”は、まだ名前を持っていない。
でも、間違いなく――次の火種だ。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園/高等部・教室】
チャイムの音が、いつも通りに鳴った。
机の脚が床を擦る音。黒板にチョークが触れる音。
みんなの「おはよう」が、普通に飛び交う。
普通。
普通のはず。
ハレルは、バッグを机の横に置いた。
足で軽く寄せる。誰にも触れさせない距離。
心臓は落ち着かないのに、顔だけは平静を作る。
担任が教卓に立って言った。
「今日は教育実習生の先生を紹介します。
葛原先生、どうぞ」
教室の扉が開く。
スーツ姿の女性が入ってくる。髪は整えられ、表情は柔らかい。
――“そう見える”だけ。
ハレルの背中に、冷たいものが走った。
目が、合った瞬間。
その視線だけが、場違いに鋭い。
「葛原レアです。よろしくお願いします」
教室が軽くざわつく。
美人。大人っぽい。そういう反応。
でも、ハレルには別のものが見えてしまう。
レアは黒板の前で、少しだけ首を傾けた。
そして――にこりと笑った。
「やあ、“ハラル”くん」
空気が、一拍だけ止まった。
誰も気づかない。
気づかないのに、ハレルの耳だけが熱くなる。
(今、わざと――)
“ハレル”じゃない。
“ハラル”。
異世界側で呼ばれた発音。
自分を揺らすための、針みたいな呼び方。
ハレルは笑わなかった。
驚きもしないフリをした。
机の下で、拳を握りしめる。
主鍵が、熱を増す。
じわり。
それは痛みじゃない。
「気づいてるか?」と問われているみたいな熱。
レアが、何事もなかったように視線を外す。
そして、黒板にチョークで文字を書き始めた。
そのチョークの音だけが、やけに大きく聞こえた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園/中等部・廊下】
昼休み前。
サキは友だちの列の中で、いつも通りに歩いていた。
笑って、頷いて、普通に。
でも、胸の奥が落ち着かない。
理由が説明できない不安が、ずっと薄く張り付いている。
ふと、窓ガラスが小さく鳴った。
風は吹いていない。
なのに、コツ、と。
サキのスマホが、掌の中で震える。
画面が勝手に点いて、一行だけ浮かんだ。
《きょうは、ゆれる》
サキは息を呑む。
すぐに消えた。
でも、消えたほうが怖かった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・学園/高等部・教室】
レアの授業は、妙に“丁寧”だった。
言葉は優しい。説明も分かりやすい。
けれど、ハレルだけは分かる。
――これは授業じゃない。
観察だ。
自分を測られている。
(ユナのコアがここにあること、バレてるのか)
(それとも――生徒のほう?)
窓の外の空が、一瞬だけ揺れた気がした。
陽炎みたいな揺れ。
でも、今日は冬のはずだ。そんな揺れ方をする温度じゃない。
教室の隅で、誰かが「今、見えた?」と小声を漏らす。
すぐに笑いに紛れる。冗談にされる。
ハレルは、笑えない。
バッグに視線を落とし、足でさらに引き寄せた。
その瞬間。
床が――ほんの一拍だけ、沈んだ。
地震の揺れじゃない。
“校舎そのもの”が、別の場所の重さを思い出したみたいな沈み方。
空気に、匂いが混じる。
土。湿った葉。
教室には絶対にない、森の匂い。
ハレルの喉が乾く。
レアが、教卓の前でこちらを見た。
目が合う。
レアは微笑んだまま、口元だけで小さく言う。
「――間に合う?」
声は、誰にも聞こえないくらい小さい。
でも、ハレルの胸には刺さった。
主鍵が、熱く脈打つ。
まるでカウントを始めたみたいに。
ハレルは息を吸い、机の下でスマホを握った。
(木崎さん……)
(ノノ……リオ……アデル……セラ……)
呼びたい名前が、頭の中で渋滞する。
でも今は、声にできない。
チャイムが鳴る直前。
窓の外の空が、もう一度だけ――揺れた。
今度は、揺れの向こうに“緑”が見えた気がした。