夜の名残を淡く溶かしながら、春の陽が静かに昇っていった。
ライオール邸の庭にはまだところどころに薄氷の欠片が残り、噴水の縁でそれがきらりと光を返している。
吐く息は白く、けれど風の匂いは確かに春の訪れを告げていた。
中庭に三本ある林檎の木からは花がすっかり散り、花が咲いていたところに小さな実りの兆しが膨らみ始めていた。
花が咲いていた時期に、庭師のジャンが花の間引きを行い、残された花への受粉作業もせっせと頑張ってくれた。その甲斐あって、秋には無事初めての果実が収穫できそうだとランディリックが話してくれた。
実が熟したら、一番にリリアンナが食べさせてもらえるらしい。
(味、分かるといいな)
部屋からミチュポムの木を見下ろして、リリアンナは小さく吐息を落とした。
「お嬢様、そろそろ支度をいたしましょう」
専属侍女のナディエルからの呼び掛けに振り返れば、ナディエルが春の淡い空をそのまま閉じ込めたようなペールラベンダーのドレスを手にニコニコと微笑んでいた。
「ドレスはこれにして……」
ナディエルがドレスをそっと広げると、柔らかな光を受けるたびに青にも紫にも見える繊細な布地が、ふわりと揺れた。
胸元には白い小花を象ったレースの刺繍が咲き、裾へ向かうほどに淡く溶けていく――。まるで雪解けの土の上に、春の花がひっそり芽吹いたようだった。
「……上着はこちらのマントにいたしましょう」
その上に選ばれたマントは、春の日差しを感じさせるような薄桃色掛かった白。
冬用のものよりは少し薄手の、ふわりとした生地の端へ縫い付けられた金糸の刺繍が、光を受けるたび朝露を纏った花びらのようにきらめいて揺れる。
淡い紫と桃掛かった白が重なり合い、光の中でひとつの色に溶けていくさまは、寒さの残る北の春に咲いた、一輪の小さな希望の花のようだった。
ドレスを着付け終えると、ナディエルはリリアンナを鏡台の前へ導いた。
丁寧な所作で櫛を動かし、暗めの赤色のふわふわウェーブの髪を梳いていく。
ハーフアップの要領で両サイドから編み込み、真ん中で左右をひとつに合流させて淡いシャンパンゴールドのリボンでまとめる。
リボンは旅装いに合わせて細めの絹地で、結び目には小さな金糸の房飾りが添えられていた。
光を受けるたびにその縁が柔らかくきらめき、まるで朝の陽をすくい取ったようだった。
髪をすべてひとまとめにしなかったのは、首筋を冷やさないためのナディエルなりの配慮だ。
冬の間は基本ハーフアップ。
夏が来る直前まで寒さに悩まされることの多いここ――北の辺境ニンルシーラでは、首筋を守るのは大切な生活の知恵だった。
「お嬢さま、王都は暖かいかもしれませんが、こちらはまだまだ冷えます。外ではマントの前をしっかり閉じてくださいね」
「……ありがとう、ナディ。……私ね、エスパハレに行くのは数年ぶりだから……なんだか少し緊張してるの」
王都ではウールウォード邸に滞在することになっている。
そこは十二歳までをリリアンナが過ごした生家だけれど、両親との楽しい思い出を打ち消すみたいな地獄の数年間の方が深く心に残ってしまっている。
(……でも、きっと大丈夫よね? だって私、あの頃とは違うもの。今の私は、もう誰かの庇護を待つだけの子どもじゃない――)
リリアンナがそう思えるのは、いつも彼女を全力で慈しんでくれるランディリックと、この屋敷の皆からの変わらぬ愛情の賜物だ。
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