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「――っ!」
人間、驚きすぎると悲鳴も上がらないのだと、荒木羽理は二十五年間生きてきて初めて知った。
浴室の中。
肩より少し長い、やや癖っ毛の栗毛色の髪から、ポタポタと雫が滴り落ちては顔を濡らす。
だけどそれすら頓着出来ないままに、羽理はカチンコチンに固まって眼前の男を見つめ続けた。
何が悲しくて、同じ社内にいるけれど雲上人のようなこの男性と、いきなり何の前振りもなく裸のお付き合いをしなくてはいけないんだろう?
大学三年生の頃、きっちり三ヶ月間お付き合いした人生初の彼氏にだって、見せたことのなかった身体なのに!
ハッと気がついて今更のように剥き出しの胸と股間を手で覆ったけれど、絶対バッチリ見られてしまっているはずだ。
だって――。
(わ、私もしっかり見ちゃったもん! 屋久蓑部長の立派な股間!)
経験値ゼロの羽理に比較対象があるわけではないけれど、めっちゃ大きかった気が致します!……だなんて下衆な感想、断じて抱いておりません!
羽理が今までの人生において唯一お付き合いしたことがあるただ一人の彼氏には、もしも赤ちゃんが出来てしまったら、今の私たちには育ててあげられないから。
そう話して大学を卒業するまでエッチは待って?とお願いした。
彼は吐息を落としながらも、うなずいてくれたのだけれど――。
(私の考え方が古すぎたの?)
昨今の恋愛モノの流行りのひとつに、シークレットベビーものというのがある。
それは、予期せぬ妊娠出産を経験したヒロインが、父親である男性に内緒で子供を産み育てるのだけれど、やがてはその子供ごと丸っとヒーローに愛される……という作品群のことだ。
羽理は、ティーンズラブは自身も小説を創作してしまうほどに大好きだったけれど、自分が母子家庭で私生児として育ったからか、どうにもそのジャンルだけは馴染めなくて。
絵空事の中だけならまだしも、現実でそんなことになったら困るという思いが人一倍強いのだ。
それが、同級生――羽理と同じ学生――であるにも関わらず、羽理の身体を求めてくる彼氏に待ったを掛け続けた理由だったのだけれど。
まさかそのせいで浮気されるだなんて、羽理は微塵も思わなかった。
なのに――。
『――お前、全然ヤらせてくんねぇんだもん』
付き合い始めて三ヶ月目の記念日。
サプライズで連絡せず遊びに行った彼氏の家。
渡されていた合鍵で彼の部屋へ入った羽理は、彼氏と見知らぬ若い女性が裸で睦み合うシーンを見せ付けられてしまった。
余りのことに呆然と立ち尽くす羽理に気付いた彼氏が、悪びれもせずに舌打ちしながら言ったのが先のセリフだ。
羽理は持っていた合鍵を彼氏に投げつけて、泣きながら部屋を飛び出して、それっきり。
羽理のアパートの合鍵が、なんの釈明もないままにポストへ入れられていたことで、二人の関係は呆気なく終わってしまったのだけれど。
以来、今日に至るまで、羽理はご縁に恵まれないままに二十五歳まできてしまった。
大学を卒業して社会人になった時、過去の過ちを踏まえてお互いに結婚の意思があるならば、肉体関係を拒んだりしない!と心に誓ったと言うのに。
人生なかなかにうまくいかない。
恋愛に対する憧れは人並み以上にある羽理は、その寂しさをまぎらわせたくて趣味の創作活動にのめり込んでいった。
でも、だからと言って……もちろん現実の、心弾むような恋の始まり自体を諦めているわけではない。
それなのに!
続々と同級生たちから結婚報告が届いては焦りを感じる毎日の中で、恋のときめきをすっ飛ばしたこの破廉恥な展開は、あんまりではないか――。
(かっ、神様っ! 私、何か悪いことをしましたかねっ!?)
別に信心深い方ではないけれど、だからと言って神様を蔑ろにした覚えもない。
(先日だって私、そこの神社の夏祭りに貢献しましたよ!?)
別に主催者側としてお手伝いをしたとか、巫女さんをしたとか言うわけではないけれど、お祭りに出向いて買い食いしたりして楽しんだのだって、立派な〝献金〟だと思う!
とは言え賽銭箱に金銭を奉ったわけじゃないから。
(神様の懐にお金が入ったかどうかまでは分かんないですけどっ)
真っ裸のまま。
ちょっぴり吊り気味のアーモンドアイを白黒させながら、物凄いスピードで自問自答する羽理の声にならない不平不満に、どこかで「ニャァー」と猫の声が応えた……気がした。