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「このトーストはさ、僕にとっては特別な食べ物だよ。昔、先生の家の台所で作ってくれたものと同じ味だから」
彼の声はどこか懐かしさが滲んでいた。睦月君は視線を落としながら言葉を続ける。「…あの頃、先生がいなかったら僕、どうなってたか分からないんだからね?」
「そんな……大げさよ。近所に住んでいた ”ただのおせっかいお姉さん”が、たまにご飯を作って一緒に食べただけなのに」
「僕には、ただのお姉さんじゃなかったよ」
睦月君の声色が急に真剣になった。彼の瞳が真っ直ぐ私を捉える。「先生は、僕のヒーローだった」
「……ヒーロー?」
「先生もうすうす気づいているとは思うけれど、僕は両親からネグレクトを受けていたんだ。そもそも常に親が家にいなかった。帰っても食べるものはないし、面倒は見てもらえないし、当然着る服もない。だから同じ格好が多かったし、学校へ行っても”クサイ”とか”キタナイ”なんて言われ続けてた。誰も僕をまともに扱ってくれなかったよ」
「そうだったの……」
放置子という単語を知ってからは、彼は辛い環境にあるのではないかと思うことがあった。確かに睦月君はいつもみすぼらしい恰好をしていた。だからいとこのお古や、自分が使わなくなった体操服なんかを着るようにって、渡してあげていたな。だから私と一緒にいれば少しは救われるかも、と思ったんだっけ。
「先生だけだったんだ。僕のこと嫌がらずに、ご飯まで食べさせてくれて、お風呂まで入れてくれて。だから、すごく、すごく僕は先生に感謝しているし、ほんとうなら困っている先生を無償で助けたいって思ってる。でも、先生は2千万円って大金の対価をなんとか支払いたいって思ったはずだ。あなたはそういう人だから」
「だって……睦月君に借りっぱなしってわけにはいかないもの……」
特に借りてしまったのはお金だから。ちゃんと働いて返さなきゃ。
「予想どおりだね。先生らしいよ」睦月君が笑った。「だから今回、偽装って形だけれども結婚して夫婦になろうと思ったんだ。僕は先生と一緒にいられたら嬉しいし、昔の恩返しをしたい。先生は昔のとおり、僕の傍にいて、僕においしいご飯を作ってくれたらそれでいいんだ。難しく考える必要はないからね」
「睦月君がいいなら、ご飯は得意だからなんでも作るわ」
「ありがとう。いろいろリクエストしていくから」
睦月君が笑った。あ、この顔、知ってる――…
あれは私が中学生の時で、確か夏休み前だった。下校をしている途中、睦月君がかなり前方を俯いてとぼとぼ歩いているところを目撃した。声をかけるにはそこそこの距離があったのでどうしようと思っていたら、横から走ってきた同級生が睦月君にドロップキックを見舞ったのだ。
細くて小さな睦月君は突然の衝撃に、たまらず吹っ飛び、倒れこんだ。
キックを放ったのは大柄で背の高いやんちゃ坊主だ。取り巻きにつり目の嫌な雰囲気の子分を連れている。
『やぁ~いむっつー、弱虫むっつー、泣けよ~』
『そ~らそ~ら』
同級生が倒れた睦月君に暴言を浴びせてくる。でも、彼はぜったいに泣かなかった。泣けば彼らがもっと執拗にいじめてくることを、小学校低学年という幼い年齢ですでに悟っていたのだ。
『やめなさいッ! 学校に言いつけるよッ!!』
私は大声を上げながら睦月君を助けようと走った。
『やべっ。逃げろ――』
私の声に気づいた彼らは走って逃げて行った。上体を起こしたがうずくまり、ひざをすりむいている睦月君にハンカチを差し出した。『大丈夫?』
『先生……』
睦月君は一瞬私を見てくれたが、恥ずかしそうに再び俯いてしまった。『カッコ悪いとこ見ないで……』
『カッコ悪くないよ。それより睦月君は強いね』
『僕が、強い? どこが?』心底不服そうな顔でいうものだから、私は彼を説得しようと、真剣に訴えた。
『こんなひどい目に遭って、ほんとうなら泣いてしまうところを睦月君は泣かずに耐えているんだもの。えらいなって思った。友達を叩いたりしないし、強いね』
『そんなこと……』
『お昼ごはん、一緒に食べよう。折り紙(おみせ)に寄って行くでしょ?』
『いいの……?』恐る恐るだけれども、とても嬉しそうな眼差しを向けられた。
『ええ! シャワーも浴びて、綺麗にしようね。夏休み、宿題いっぱい出たでしょ。一緒にやろうよ。わからないところは教えてあげるから』
『うんっ! ありがとう先生っ』
あの時の私は、ただ目の前の睦月君を元気づけたい一心だった。
今、さっき見た20歳の睦月君の笑顔が、幼いころに見た彼の笑顔にリンクした。
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