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「『暑中お見舞い申し上げます。厳しい暑さが続いておりますが、お元気ですか。』わかってはいるけど、かしこまった文ってなんだかムズムズするな。」
「しょうがないわ。直接話すのと文章とでは色々と違うもの。」
届いたばかりの暑中見舞いの葉書をもったけんいちの傍らで母親は笑った。
杉山からの葉書には去年同様、大野が去った後の清水で彼が過ごしてきた日々について書かれていた。
五年生への進級に伴い清水にも転校生が来たこと、サッカー部に入ったケンタがその後も練習に励んでいること……色々な話題がある中で特に大きな割合を占めているのは五月中旬に学年全員で行ったという「林間学校」についてだった。
「飯盒炊爨にキャンプファイアーか……!自分たちで火を起こしてカレーを作るなんて楽しそうだなぁ!」
立ち上る煙にむせながらも、交代でうちわで風を送りながら協力して火加減を調節したのだと葉書には書かれている。
けんいちは数年前、家で手巻き寿司を作った時のことを思い出した。
酢飯を作る過程で頑張ってうちわであおいで風を送ったのをよく覚えている……ずっと一人であおいでいるとだんだん腕が痛くなってきて、その度に母さんとかわるがわる交代したものだった。
あれとはまた違うのかもしれないが、森の中で皆でワイワイ話しながら少しずつ出来上がるのを待つのはさぞ楽しいだろう。
……楽しかったことといえば、葉書には消灯時間を過ぎた夜に部屋で行われた二日間にわたる男子全員での会話大会のことも書かれていた。
一日目の夜は怪談、二日目の夜は恋バナを中心に巡回する先生にバレないよう小さな声で、お互いの枕を寄せ合いながら心ゆくまで話したのだという。
“おかげで次の日に寝不足になったやつもいたんだけど、それはそれとしてすごく楽しかったぜ!大野の学校はもう林間学校とか行ったのか?終わったらどんなことがあったのか俺にも教えてくれよな!”
話し言葉に訳すとこんな感じだろうか……ニカッと笑った顔が脳裏にうかんで、思わず自分まで笑みがこぼれるのがわかった。
「よかったわね。……あ、ケンちゃん!」
もうそろそろ家を出たほうがいいわ、と母親は言った。
「本当に大丈夫?一緒に行かなくていい?」
「あぁ。道もわかってるし、平気だよ。」
けんいちはそばに置いていたリュックサックを持ち上げて言った。
今日から約1ヶ月、夏期講習のために通うことになる塾までは自転車で15分くらいだった。
母親の見送りを背に家を出た大野は普段は通らない方向へ進み、信号のある角を曲がる。
しばらくして大きな交差点を抜けると塾のある場所まではゆるい下り坂になっていて、風がない割には涼しく感じられた。
しかし行きが下り坂だということは帰りは坂を登るということになる……赤信号を前にした大野は雲一つない青空を見上げると、どうか帰りには涼しくなっていることを願った。
思い返せば一度だけ、夏休みの始まる少し前に夏期講習の説明を受けるために母さんと塾の中に入ったことがあった。
“今から息子さんには入塾テストを行ってもらいます。”
四角いフレームの黒メガネをかけた塾長はいかにも賢そうな雰囲気を醸し出していた。
曰く、普段からこの塾では年に数回行われるテストの成績によって生徒を二つのクラスに振り分け、振り分けられたクラスによって授業の内容や担当する教師などが色々と違うらしい。
個別の塾ではないためか、夏期講習生のために専用の授業が開かれるというわけではなく通っている塾生と合流して一緒に授業を受けることになるようだった。
「ーーーーあ」
青信号をわたって大野が自転車をこいでいると、目の前に停車した車から一人の少年が降りるのが見えた。
遠目からでも微かに見覚えがある。
滅多に話す機会はないが、それは正しく大野のクラスメイトの一人だった。
あいつも夏期講習に参加するのか……。
その時になって大野はかつて折原が言っていたことを思い出した。
“通っている奴はまだ少ないみたいだけど、夏期講習には参加するって奴はけっこういるみたいだぜ。”
あれはたしか去年の夏頃だったはずだ。
そうなると、他にも何人か見知った顔を見かけることがあるかもしれない。
車から出て歩き出す彼を追い越すと、ついに入り口が見えてくる。
自転車をとめて中に入ると、塾長とは違う人の良さそうな顔をした若い男の先生が「おはよう」と声をかけてきた。
「夏期講習の子かな?」
「はい」
「じゃあそこの階段を上がって二階の教室に入ってね。教室と席の場所は扉の前に貼り出してあるから。」
「わかりました。」
軽く会釈して示された階段の方へ向かいながら、大野はその脇にある部屋にチラリと目をやる。
空き教室だろうか……?
しんと静かな空気感から感じたのはそんな印象だったが、意外にも中は電気がついていて、まばらだが何人か生徒がいるようだ。
だが……こうも誰一人喋ることもなく机に向かっているのは威圧感があるというか、正直いって薄気味悪い。
ここは自分の入る教室ではないのだから、向こうに気づかれないうちにさっさと上に行ってしまおう……大野が階段を駆け上がると、クラス分けの張り紙はすぐに見つけることができた。
「ーーーー!」
引き戸を開けて大野が教室に入ると、先に座っていた三人ほど視線と目が合って驚いたが、それもすぐに離れていった。
張り出された席順の名簿には見知った名前が少なからずあったものの、そのほとんどが大野とは別のクラスに振り分けていた。
同じクラスにも何人かいるにはいるが、皆席がバラバラで大野の周囲は見知らぬ生徒で固められている。
今まで同じクラスにならなかったせいで会ったことがないのか……それとも通っている小学校が違うのだろうか?
あわよくば友達ができればいいなと思いながら荷物をおろし、指定された席に座ると辺りはいよいよ静かだった。
彼らも俺と同じ夏期講習生なのだろうか……。
一人、また一人と教室に人が入ってくるのを眺めていると、不意にガヤガヤと話す声が近づいてきて、おや?と思う。
「あれっ村井じゃん!村井も夏期講習来たんだ!」
「え、吉野?!」
大野の左斜め前に座っていた生徒が驚きのあまり立ち上がると教室は一気に騒がしくなった。
「すげー、じゃあ村井もここ通うの?」
「まだわかんない。広告見てとりあえず夏期講習に来ただけだからさ」
幸運にも彼らは席が隣同士だった。
吉野と呼ばれていた奴は彼の隣に荷物を置くと、一緒に階段を上がってきたらしい数人を交えてわいわい話し始める。
気づけば時計は授業開始に近づいていて、 空席が目立っていた大野の周囲もだんだんと埋まりはじめていた。
「はい、授業始めるぞー。みんな席につけー。」
よく通る大きな声に目を向けると、プリントの束をもった先日の塾長が教室に入ってくるところだった。
相変わらず黒いメガネをかけた彼は生徒のいない最前列の机にプリントをドカッと置くとこちらを見てニンマリと笑う。
軽い世間話を交えた挨拶と 初対面の夏期講習生に向けた説明をかねた話をすると、まもなくして授業は始まった。
……今日の時間割は社会、英語、算数の順だったはずだ。
日本の地形や都道府県について学ぶ旨を話す先生によって配られたプリントに目をやると、大きく書かれた白黒の簡素な日本地図には縦や横に走るいくつかの太い棒線と灰色に塗られた部分の二種類が書かれていて、その一つ一つに対応する番号と答えを書く欄があった。
「今から5分計るので時間までに解いてください。それじゃあ、始め!」
タイマーの音とともに鉛筆が動く音が聞こえてくる。
いきなり時間を計られたことに驚く暇もなく、急かされる皆と同じように大野もまたプリントに目をやった。
棒線が山脈、灰色に塗られた部分が平野だろう。
まずは北海道の上下に位置する、ハの字を回転させたように並んだ二本の棒線……一学期には確かに習ったはずなのに、答えが出てこない。
とりあえずこれは後回しだ。
番号を追って下に行くと、次にあるのは東北地方を縦に分断する、川の字に並んだ三本の棒線だ。
これは覚えている……真ん中の一番長いのが「奥羽山脈」だ。
でもその隣にある二つは何だっただろうか?
答えに迷っていると、書き入れた答えと番号が合わないことに気がついて大野はハッと目を見開いた。
三本の縦線のうち、左側の二本の少し上に短い横棒がある。
番号が違うのはこのせいか……!
慌てて大野は答えを直しながらも、見覚えのない横棒に首をかしげた。
県でいうと青森県だろう……しかしこんなところに山脈なんてあっただろうか?
小テストの前に覚えていた時はなかったはずだ……それとも単に習ったのに自分が忘れているだけなのだろうか。
記憶の欠落は思いの外激しかった。
日本アルプスを形成する三つの山脈はかろうじて名前は覚えていたものの配置が曖昧で、それより西側は地方と名前が同じ「中国山地」と「四国山地」の他はほとんど空欄だった。
平野にいたっては「関東平野」を思い出したので精一杯だ……山地に比べれば空欄の割合ははるかに目立つ気がする。
「それでは解説を始めます。今回は答えは当てませんが、それ以外の所は順番に聞いていくので決して寝ないように!」
……え、今なんて言った!?
しれっと混ぜられた爆弾発言に大野は目を見開く。
どんな順番かは知らないが、いつかは答えまで当てられるなんて冗談じゃない。
眠気で下がりかけていた頭をガバッと起こした前の席の男子も同じ気持ちのようだ……普段から慣れているらしい塾生を除いてザワザワと動揺が広がる様に「静かに!」と先生の大声が響いた。
「これは皆さんに緊張感をもって授業を受けてもらうためにやっていることです。何をするにしても環境は大切です……当てられるのが怖ければ予習と復習をしっかりしてくればいいんです。眠っている人は優先して当てるので、そのつもりでいてください。」
そう言った先生の顔が、僅かだがこちらに向けられた。
緊張感なんてむしろストレスの元でしかないじゃないか。
いっそ誰か一人でもいいから皆の分まで質問を引きつけてくれればいいのに……我ながら酷いものだと思いながら、しかしそんな考えがよぎるほどに大野は確かな威圧感を感じていた。
「⑤は奥羽山脈だ。これは日本最長の山脈だからよく覚えておくように。それとこの辺りには三陸海岸というギザギザして入り組んだ海岸がある。このような入り組んだ海岸のことをなんていいますか……村井!」
「え、えっと……『リアス式海岸』です!」
「そうだ。リアス式海岸は波が穏やかなことを生かして養殖業をーー」
無事に言及から逃れられた彼がほっとして隣の席の男子ーー確か「吉野」だっただろうかーーに感謝しているのが大野の目に入った。
答えにつまる彼に咄嗟に耳打ちしてくれたことに感謝しているのだ……それぐらい気にするなよと言わんばかりの笑顔が妙に眩しい。
ああやって助け合う友達がいるのは羨ましかった。
一方で大野の席はといえば誰一人知り合いもいなければ目線さえ合わず、休み時間ですら話しかける隙もなかった。
取り付く島もないとはこういうことなんだろうな、と大野は思った。
自分が当てられるのを想像したくはないが、こうなったら腹を括る他にないだろう。
プリントを一枚解くと隅から隅まで解説し、生徒に質問を投げかけてはまた次のプリントに進むーーこのサイクルに終わりはなかった。
やっとのことで社会の時間が終わると僅かな休憩を経て英語、算数と続き、全ての授業が終わる頃には大野はすっかりヘトヘトになっていた。
「おかえりケンちゃん。夏期講習、どうだった?」
「つかれた……シャワー入ったらちょっと寝たい。」
帰り道の上り坂も相まって、消耗はより激しく感じられた。
塾は週に二日、あと一ヶ月も続くのだ……まだまだ先が長いだなんて信じたくなかった。
一通りの教科を受けて驚いたのは、授業中に生徒を当てるというのは塾長の独断ではなかったことだった。
どの教科の先生も程度の差はあれ「緊張感をもってもらうため」と言って生徒に質問を投げかけるのだ……答えられなかった場合の対応は先生によって異なるものの、これでは一向に心は休まらない。
「よく頑張ったわね。……英語の授業はどうだった?」
「アルファベットと、少しだけど英単語もやったよ。その後は音読だったな……。」
あぁ、また思い出してしまった。
母さん曰く、 夏期講習にこの塾を選んだのは中学から始まる英語の予習もできるという点も大きかったようだ。
まだ今回は大丈夫だったが、来週には宿題の分と加えて英単語もテストをするらしい……他の教科も大体そんな感じだ。
学校で習うよりも授業の内容は詳しくて、先生の小話や説明にはそれなりに興味があるものの、度重なる小テストと配られる大量の宿題に加え、何事も急かしがちな先生の存在は憂鬱だった。
夏期講習に行くと言った友達は二週間くらいで終わっていた気がするが、それも塾によるのだろうか。
みんなこんな思いをしてまで毎週塾に通っているなんて信じられない。
脳裏をよぎる嘲笑の数々に見返したいという思いで臨んだものとはいえ、夏期講習関連の課題と並行して夏休みの宿題にも追い詰められるようになると意欲的な姿勢はいよいよ失われていった。
「え、これからも通う?」
夏の終盤、驚いたけんいちの声に母親は頷いて言った。
「えぇ。ケンちゃんに合っているなら通うのもいいと思うんだけど……」
「別にいいよ!もうこれ以上は無理だって!」
「でも夏期講習始まってからはケンちゃん勉強頑張ってるじゃない。塾に行くことで勉強を頑張れるのなら塾に通うのもいいことだと思うの。」
「それは……!」
どうして?と言うような顔にけんいちはグッと唇を噛む。
丸つけしてもバツばかりで悪戦苦闘して、今すぐにでも放り出したい衝動にかられながらも机に向かっていたのは確かだった。
だがそれはそうしなければ宿題が終わらないからであって、宿題が終わらないと授業中に当てられた時に答えられないからだ。
暗記、小テスト、塾の宿題、暗記、小テスト、夏休みの宿題。
こんな生活がずっと続くなんて耐えられない!
おんぶにだっこで助け合う奴らとは訳が違うのだ……どうにか自分を誤魔化しながら一人きりでこんなにも頑張ってるのに、それがずっと続くなんてーー
「嫌だよ……あの塾、先生が毎回生徒をあてて答えを聞いてくるんだ。テストとか宿題もいっぱいあるし、それに……」
「それに……?」
塾とはそういうものではないのか、と真っ当な疑問が投げかけられるのが表情でわかる。
「そ、それに先生がすごく“高圧的”なんだ!あんなのもう耐えられないよ!」
「……そう。わかったわ、それなら仕方ないわね……。」
結論から言うと、大野はそれ以降あの塾に通うことにはならなかった。
母親の声に大野はほっと胸を撫で下ろすと、先日の夏期講習生の会話に感謝するばかりだった。
“先生が高圧的で耐えられない”
それはある授業終了後の教室で、友人に今後の継続を尋ねられて答えた一人の夏期講習生の言葉だった。
あれがなかったら母さんを説得できなかっただろう……盗み聞きなんて褒められたことではないのだが、この時ばかりはありがたかった。
これでやっと、夏が終わる。
切り取られる8月のカレンダーがこんなにも清々しく感じられるのは生まれて初めてだった。
「へぇー、大野も夏期講習行ったんだ。」
「あぁ。でもなんか堅苦しいところだったよ。先生は毎回こっちに答えを聞いてくるし、みんなもずっと競争しているみたいでなんか居心地悪いというかさ……。」
9月になって学校が始まると、ようやく大野は晴れて自由の身になったのだった。
いつも話している友人に大野がことの顛末を話すと「大変だったな」と彼らは頷いて言った。
「でもよかったじゃん。もう通わなくていいんだろ?」
「まあな。なんとか無事にすんで本当によかったよ……。」
そう言って苦笑いを浮かべる大野を疑う声はなかった。
本当の友達とは一体なんなのだろう。
5年2組の生徒としての生活も3分の1が過ぎ去ったわけだが、その間に大野が知ったのはこのクラスの男子グループは大きく二つに分かれていることだった。
一つは比較的大人しくて穏やかなクラスメイトが集まったもので、もう一つが大野や折原を含む比較的活発なクラスメイトが集まったものだ。
その違いは休み時間の過ごし方にも表れていて、大野たちが度々校庭に出てドッジボールや鬼ごっこで遊ぶ一方で、穏やかなグループは決して教室から出ることはない。
とはいえその二分割はそれだけでは意味がなく、大野を含む活発なグループも実際は折原と特に仲がいい一部とそれ以外とで大きく分かれておりーー今の大野が仲良くしているのも折原から遠い人ばかりだーーいろいろと複雑なのだが、大野が彼らを信用する一方で、動機となった折原たちとの一件はどれほど親しくしていようとも決して話すことはなかった。
彼らがこのことについて何か知っているとは思えないが、一枚岩に見える集団にも派閥や対立があるというのはこの夏でよくわかった気がする。
……最後の夏期講習の日、親の方針で今後も通うことになった生徒は哀れだった。
席の配置がテストの成績順になっていたのも驚いたが、大野の振り分けられたクラスでは半分が上のクラスに入れたり入れなかったりを繰り返していてーー彼らの言い分によると、上のクラスの方が戦いはもっと“苛烈”らしいーーもう半分があの教室の中で順位を行ったり来たりしていた。
先生は順位の低い人にほどよく当ててくる……急かしてプレッシャーをかけることで本人も周りも頑張れると信じているのだ。
陽気で要領がよくて情に厚い奴は周りの生徒と協力して危機を切り抜けているが、所詮そんなのは数人なのだ…… 残りのほとんどは惨めな足の引っ張り合いである。
誰かが答えを考えていたり、あるいは沈黙してそれを怒られている間は、先生の第三者への関心は必然的に薄くなる。
あの日の大野が思ったように、皆いかにして自分が標的にならないかに神経を注いでいるのだ。
大野の席はちょうど中央あたりの列にあり、おかげで両者の攻防を間近で見ることができた。
過酷な生存競争を前に思うところは色々とあったものの、しかし日が経つほどに大野はその戦いを批難することはできなくなっていった。
彼らは全体と比べれば成績が劣るものの、決して努力を怠っているわけではないのだ。
聞かれた問題も、それが小テストや宿題由来のものであれば間違えることはほとんどない。
だがそこに応用が入ってくると、正答率は低迷する。
当てられても答えられるように、と必死になって課題をこなしている大野と比べたとてそこになんの違いはないことに気づいたのである。
……彼らだってきっと不本意なのだ。
どうにかしてあの環境から脱したくて、努力して、それでも周りもみんな努力しているせいでなかなか差は埋まらなくて、また同じことを繰り返している。
上位陣と問題が共通している以上、他を抜く圧倒的な差を生み出さなければその格差からは永遠に逃げられないのだ。
隣人との差もきっと微々たるものでしかないのだろう。
僅かな差と時の運とで踏みとどまっても上位に掛け合えるだけの力はなく、助け合おうにもお互いに力になれる余地がないのかもしれない。
目に光がなく、うなだれた生徒が実に哀れだった。
夏期講習の授業は半分が今までの復習が中心だったものの、通常の授業ではそうもいかないだろう。
〇〇高校合格、〇〇中学校定期テスト〇位……内外に貼り出された輝かしい戦績にははたしてどれほどの礎があるのだろう。
そんなことを考えていたある時、勉強ができる上に誰に対しても平等で思いやりがあった長山や丸尾は優しかったのだと大野は気づいたのだった。
丸尾は少し癖が強いところもあるが、そんなのは比べものにならないだろう…… いけ好かないと反発した花輪だって、結果として感情に流されることなくいつだって中立を保っていたのだ。
彼の言い分やその気持ちも、今ならなんとなくわかるような気もする。
チャイムが鳴るとなにやら紙の束をもった先生が教室に入ってきて、席についた大野は思わずその姿を目で追った。
普通のプリントとは違う、二つ折りのなにやら大きな紙……それがおそらくクラス全員分、教卓の前に立つ彼の手の中にある。
「今から4月にやった実力テストを返却します。一人ずつ番号順で取りにくるように」
一番、二番……真っ先に立ち上がった二人に続いて数人が席を立つ。
あのテストか……。
大野の脳裏にまだ席が番号順に並んでいた頃のことがよぎる。
ぐずぐずしている暇はなかった。
大野は立ち上がると、もう既に人の増えはじめている教卓の周辺に足を踏み入れた。
「お」から始まる名字は一番にこそならないものの、後が控えるこんな序盤に受け渡しを停滞させるわけにはいかない。
周りの期待と驚きの混じった騒がしさに浸る余裕もなく、大野の答案が返却される番はすぐそこまで近づいている。
「ーーーー!」
恐る恐る先生から用紙を受け取ると、大野は真っ先に目に入った歪な多角形と長さがガタガタな横並びの棒グラフに驚いて目を見開いた。
答えを書いた解答用紙がそのまま返ってくると思っていた大野は、このような得点の傾向を分析や比較が中心の成績表を見るのは初めてだった。
それでもこれが決して良い成績でないことはすぐにわかる。
C、C、D、B……各項目の成績を示すアルファベットと平均点との差を示したグラフを見るだけでドクドクと心臓が脈打つ。
……万が一にも、誰かに見られるわけにはいかなかった。
すれ違いざまに一瞬だけ折原の視線を感じた気もしたが、そんなのを気にかける余裕もなく両面印刷の用紙を急いで折って手で隠した大野は人をかき分けて安全な自分の席へ戻った。
盗み見る視線がないことを確認して、もう一度恐る恐る開いてみる。
こんなにも低いなんて信じられない。
それにしても合計は一体何点なんだ……?
「大野はどうだった?」
「え」
バッと身を起こすといつも話す友人が教卓の方から戻ってくるところだった。
出席番号の関係で大野とはちょうど入れ替わりになっていたのだろう。
そういえば席が近かったな、と思いだした大野は咄嗟に用紙を持った手を背後に回すと不思議そうにこちらを見返す彼にむかって答えた。
「えっと……だめだ、低すぎてとてもじゃないけど見せられねーよ!」
「そんなに?大丈夫だって。別に俺だって高くないし、せっかくだから見せ合いっこしよーぜ」
「でも……半分もとれてないんだぜ?」
合計は各項目の配点を足した一番下に書いてあった。
34点
今まで受けた国語のテストの中でも圧倒的な最低点だ。
点数の低さも、よりによって他の教科に比べれば多少は自信があった国語のテストのものだなんて信じたくなかった。
確かに問題は難しかったし時間も思ったより余裕がなくて焦ったのを覚えているが、それでも最後まで解けなかったわけじゃない。
それに空欄もほとんどなかったのだ。
まさか最低点の常習犯である算数に並ぶほど悪いとは思わないじゃないか……。
「俺だって半分もとれてないよ。大野もこういうテスト受けるの初めてだったんだろ?高得点なのは塾で解き慣れてる奴らばかりだから気にすんなって!」
爽やかな笑顔にあてられて、二人の答案は大野の机の上に広げられることとなった。
「紺野は……え、47点?お前半分もないなんて言ってたけど、こんなのほとんどあるようなものじゃねーか!」
たしかに嘘ではないのだが、なんというかこれはこれで酷い裏切りではないだろうか。
ジト目で見つめる大野に彼は「まあまあ」と苦笑いを浮かべると「でもさ、」と続けて口を開いた。
「大野もそう酷いわけじゃないよ。間違えてるところとか俺とほとんど変わらないし……この辺とかもっと取れてたら、たぶんもうちょっと変わってたと思うぜ?」
そう言って紺野はトントンと棒グラフの一角を指先で叩いて見せた。
漢字、慣用句、語句の問題……。
大野の評価は他と変わらず「C」だったが、対応する紺野の評価は「B」だった。
「まあこういうのは運の問題もあるからな……大野もあんまり気にすんなよ」
「あぁ……ありがとうな。」
自分の席に着席するように呼びかける先生の声で二人の会話は終わりとなった。
グラフや図のもつ意味や紙の見方が説明されるたびに「あぁ」と思う。
国語は得意な方だったはずなのに、こんなにも低かったのか。
紺野の言葉はありがたかった一方で、その答案の評価が少し気にかかった。
彼の47点は平均点に届いてはいなかった……評価項目における「C」や「D」は少なからずそれを表している。
しかし意外にも彼の評価用紙からは「B」の文字がいくつか目に入ってきた。
どの項目もそう変わらない大野とは違って彼の成績には「波」があるのだ。
たった一つのBを見つめる大野の視線は重く、紙を握る手に自然と力が入る。
……母さんに見せたら怒られるだろうな。
せめて紺野のようにもう少しBの数が多ければーーそんなことを考えていた時、大野はハッとして微かに目を見開いた。
評価項目に見られる「波」とは文字通り、彼の学力には明確な「強み」があるということだ。
ーー俺にはあるのだろうか?
何か一つでも、どんなに小さくても「これなら大丈夫」と自信をもって言えるものが今の俺にはあるのだろうか?
……あの時と同じだ。
突如として湧いた疑問はいつものように簡単に無視できるものではなくて、半紙の上に垂らした一滴の墨汁のようにじわじわと侵食して周囲を飲み込んでいく。
今はただ慣れたことを、心を落ち着かせるために大野は大きく深呼吸をする。
ほとんど意味がないのはもうわかっていた。
それはいつだって唐突に現れては荒らすだけ荒らし、近くも遠いどこかへと消えていく。
……幾度となく訪れるその痛みは、決してもう未知のものではないのだから。