リンクの冷たい氷が、淡い青白い光を反射していた。紬はスケート靴をきつく締め直しながら、深く息を吸い込んだ。周りには、音楽に合わせて滑るスケーターたちの笑顔。滑る音、笑い声、コーチの声がリンクに満ちている——紬には、そのすべてが届いていなかった。
補聴器を外した耳には、世界の音が消え去っていた。ただ、彼女の胸に響くのは、自分の不器用な滑りでリンクを傷つける音だけだった。リズムを感じ取れない彼女の動きは、他のスケーターたちとは比べようもなかった。
「今日は絶対にやるんだから……。」
紬は小さな声で自分に言い聞かせながら、リンク中央に向かって歩き出した。そして、勢いをつけて試みたのは、「フリップジャンプ」。ジャンプには、助走をつけて滑り、氷をつま先で蹴って飛び上がるステップが必要だ。空中で一回転しながら片足で着地するシンプルながらも重要な技で、スケーターたちの基礎としてよく練習されているものだ。
紬にとって、このジャンプは慣れた技だった。何度も練習を重ね、成功させられるようにはなっていた。だが、補聴器をつけていない今、音楽のリズムを感じ取れない彼女は、成功の直後すぐに曲の流れを見失った。
「またリズムを見失ったの?補聴器を使えば、リズムに合わせるのもずっと楽になるでしょ?」
と、スケート仲間の結衣が声をかけた。
「使いたくないの。」紬は悲しそうに答えた。「音がある世界で滑るのは、自分じゃない気がするの。」
「でも、それじゃあ大会では……。」
紬は結衣の言葉を遮り、リンクの端に歩いていった。彼女の目には涙が浮かんでいるのがわかったが、結衣はそれ以上言葉を続けることができなかった。
紬は、柔らかく弧を描くように滑りながらリンクの端へと戻ってきた。曲がない中でも、彼女の動きには一つ一つ明確な意図が宿っているように見えた。その瞬間、リンクの外から成瀬コーチが声をかけた。
「紬さん。」静かで落ち着いた声だったが、その一言に含まれる思いは深かった。彼女が顔を上げたが、補聴器をつけていないために聞こえなかったことに気付いたコーチは、リンクに入り、そっと肩を叩いた。
「はい?」驚いたように振り返る紬に、成瀬コーチは微笑みを浮かべた。
「曲がなくても、ここまで滑れるのは立派ですよ。でも、何か辛そうですね。何か手伝えることはありますか?」
紬は一瞬躊躇したが、やがて小さな声で答えた。「……リズムがどうしても掴めないんです。音がないと、どうすればいいのか分からなくて……。」
成瀬コーチは彼女の言葉を静かに受け止め、少し考え込むようにしてから言った。「音楽がなくても、滑りの中で自分のリズムを見つける方法はあると思いますよ。それに、あなたには音ではない『何か』が見えているはずです。その感覚を信じてみてください。」
成瀬コーチはリンクの外から彼女を静かに見つめ、やがて穏やかな声で言葉を放った。「もう一度滑ってください。私は音がなくても、あなたのスケートを見てみたいですからね。」
その言葉に、紬は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにコクリと頷いた。そして、リンクへ向かい、ゆっくりと氷上に立つ。彼女は体を低く構え、手を広げるポーズを取った。その瞬間、彼女の心に一つの静けさと決意が宿る。
滑り出した紬の動きは、静かな水面をなでるように柔らかで美しかった。リンクに描かれる足跡は、彼女だけが持つ物語を語る。しばらくの間、優雅に滑った後、彼女は軽やかなジャンプを試みる。サルコウ――体を軽やかに回転させ、氷の上に戻った瞬間の動きには、独特の繊細な美しさが漂っていた。
次に、彼女は2フリップジャンプに挑んだ。空中で柔らかい弧を描きながら着氷するその姿は、音がないからこそ際立つ彼女の滑らかさを表現していた。続いてバックワードスピン。紬の体がリンクの中心で回転し、その流れの中にリズムと美が溶け込んでいった。
そして最後に、片足を高く上げて滑る動作で締めくくる。長い線を描くようなその優美な姿は、まるで絵画の一部のようだった。フィニッシュにはひざまずき、右手を唇に、左手を後ろに伸ばしてポーズを取る。その瞬間、静寂のリンクが一つの完成した芸術作品に変わったように思えた。
紬はゆっくりと立ち上がり、リンクから上がると補聴器をつけ直した。そして、成瀬コーチの前に立ち、少し緊張しながら尋ねた。「どうでしたか?」
成瀬コーチは彼女を見つめ、満足そうに頷いた。「うん。見た所君にしかない綺麗さがある。私がこれまで沢山の子を見てきた中でも、その『綺麗』というものがすぐに分かる滑りだったよ。」
紬はほっとした表情を浮かべ、笑顔を見せた。「ありがとうございます!でも、さっき言ってた『何か』って……?」
成瀬コーチは静かに微笑みながら答えた。「それは自分で探しなさい。『それ』をようやく見つけたとき、すぐに上手くなるから。今日はもう帰りなさい。」
紬は深く頷き、リンクを後にした。夜の空にはまだわずかに夕日の名残が残り、未来への光を感じさせるようだった。彼女の胸には、新しい目標への火が静かに灯っていた。
つづく
コメント
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アドバイスありがとうございます!それについては、後から書こうと思ってました!スミマセンm(_ _)mなるべく早く書きます。
アドバイスとして強いて言うなら、この主人公(聴覚障害者)はいつから耳が聞こえなくなった?ってなる... 生まれつきなら喋れないし、 でも途中から難聴になったのなら喋れるが... リアルさを求めるならこれを守るべきだと思うけど、ま、面白いならいっか。って思っちゃう...·͜·