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熱は、朝になると少しだけ下がっていた。
身体は重いままだけれど、
昨日の夜ほど、世界は揺れていない。
「…おはよう」
声を出すと、
少しだけ掠れていた。
ソファの横で、
彼が目を覚ます。
「…おはよう」
一瞬、
安心したように息を吐く。
「…調子、どうですか」
「…だいぶ、楽」
それは、
嘘じゃなかった。
でも、
完全でもなかった。
彼は、
私の額に手を当ててから、
静かに言った。
「…今日は、無理しないでください」
その言葉が、
もう“当たり前”になっている。
「…ありがとう」
それだけで、
胸が少し苦しい。
朝食は、
簡単な物にした。
彼が、
自然に手伝う。
トースターにパンを入れて、
カップにお湯を注ぐ。
2人で立つキッチンが、
当たり前の景色になっている。
(…このままじゃ、だめなのに)
パンをかじりながら、
彼がぽつりと言った。
「…昨日」
「…うん」
「…名前、呼びましたよね」
心臓が、
静かに強く鳴る。
「…熱で、ぼーっとしてたから」
言い訳が、
自分でも苦しい。
彼は、
少しだけ笑った。
「…そう、ですよね」
でも、
どこか納得していない。
「…嫌、でしたか」
私が聞くと、
彼は首を振った。
「…むしろ、嬉しかった」
その言葉が、
胸に落ちる。
(それ以上、言わないで)
沈黙が、
2人の間に落ちる。
破るのが、
怖かった。
昼過ぎ、
少しだけ外の空気を吸おうと、
窓を開けた。
風が、
カーテンを揺らす。
「…音」
彼が言う。
「…風の音、好きです」
「…どうして?」
「…言葉に、ならないから」
その答えが、
彼らしいと思ってしまう。
(あなたは、いつもそうだった)
でも、
それを知っている理由を、
私は言えない。
夕方。
彼が、
ピアノの前に座った。
でも、
弾かない。
ただ、
鍵盤に指を置いている。
「…弾かないんですか」
私が聞くと、
彼は首を振った。
「…今は、まだ」
「…まだ?」
「…音にしたら、戻れなくなりそうで」
胸が、
きゅっと締まる。
「…何から?」
「…この距離から」
その言葉に、
何も返せなかった。
夜。
電気を落とした部屋で、
2人並んで座る。
テレビは付いているけど、
音は頭に入らない。
彼が、
そっと私の手に触れた。
指先が、
触れるだけ。
でも、
それだけで、
全身が緊張する。
「…由莉」
名前を呼ばれる。
昨日とは違う。
意識が、
はっきりしている。
「…何?」
「…僕」
1拍、置いて。
「…言いたい事、ある気がします」
心臓が、
強く鳴る。
「…でも」
彼は、
少しだけ笑った。
「…今、言わない方が良い気もする」
その選択が、
優し過ぎて、
苦しい。
「…どうして?」
私が聞くと、
彼は、
静かに言った。
「…音になる前が、1番、壊れやすいから」
その言葉で、
全部、分かった。
これは、
“好き”だ。
でも、
まだ言葉にしてはいけない。
言葉にした瞬間、
選択が始まってしまう。
戻る世界。
離れる未来。
残る時間。
全部が、
現実になる。
彼は、
そっと手を離した。
「…今日は、ここまでにしましょう」
「…うん」
夜、
布団に入ってから、
眠れなかった。
(好き)
その2文字が、
何度も頭に浮かぶ。
でも、
声にはしない。
― “好き”は、
音になった瞬間、
もう戻せない。
だから今夜は、
まだ、
胸の奥にしまっておく。
この静けさが、
いつか壊れる事を知りながら。