テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
最初に聞こえたのは、
音だった。
それは現実の音じゃない。
テレビの音でも、
外の車の音でもない。
― 拍手。
どこからともなく、
波のように押し寄せてくる。
「…っ」
彼が、
小さく息を詰める。
私は、
すぐに気付いた。
「…天音?」
返事はない。
彼は、
ソファの端で、
両手を握りしめている。
肩が、
わずかに震えていた。
「…どうしたの?」
近付こうとすると、
彼が、
首を振った。
「…ごめん」
声が、
少し掠れている。
「…急に、音が」
胸が、
嫌な形で鳴る。
(来た)
(ついに)
彼の世界が、
思い出そうとしている。
「…どんな音?」
私が、
出来るだけ穏やかに聞く。
彼は、
目を閉じたまま言った。
「…沢山の人」
「…声」
「…叩く音」
拍手。
歓声。
名前を呼ぶ声。
(ステージ)
(あなたの、本当の居場所)
でも、
今は言わない。
「…行かなきゃ、いけない気がする」
その言葉に、
胸が締め付けられる。
「…どこに?」
「…分からない」
彼は、
額を押さえた。
「…でも、行ったら」
1拍、置いて。
「…ここに、戻れなくなる」
その言葉が、
1番、
重かった。
私は、
そっと彼の前に座る。
視線を、
同じ高さにする。
「…今は、ここにいるよ」
そう言うと、
彼は、
少しだけ目を開けた。
「…由莉」
名前を呼ばれる。
意識が、
はっきりしている声。
「…僕、行きたくない」
その言葉が、
胸に突き刺さる。
「…戻るの、怖い」
正直な声。
私は、
何も言えなかった。
「行かないで」
なんて、言えない。
「行って」
なんて、
もっと言えない。
代わりに、
手を伸ばした。
彼の手を、
そっと包む。
冷たい。
でも、
ちゃんと生きている温度。
「…今は、ここにいて良い」
私は、
それだけ言った。
彼は、
深く息を吐いた。
「…ありがとう」
しばらくして、
彼の呼吸が落ち着く。
拍手の音は、
少しずつ遠ざかっていった。
夜。
彼は、
ピアノの前に立った。
でも、
蓋は開けない。
「…弾かないんだ」
私が言うと、
彼は首を振った。
「…今日は、弾かない」
「…どうして?」
「…音にしたら、戻っちゃいそうで」
その言葉に、
何も返せない。
彼は、
鍵盤の上に手を置く。
でも、
押さない。
「…ここ」
小さく言う。
「…今の僕は、ここにいたい」
それが、
選択だった。
でも、
永遠じゃない。
私は、
その事を知っている。
夜中、
目が覚める前に、
彼の声が聞こえた気がした。
「…ごめん」
夢か、
現実か、
分からない。
「…迷ってて」
その声に、
私は、
小さく答えた。
「…迷って、良いよ」
多分、
声には出ていなかった。
でも、
その言葉は、
ちゃんとここにあった。
― フラッシュバックは、
前触れだ。
戻る世界が、
すぐそこまで来ている合図。
それでも、
今夜は、
ここにいる。
それだけで、
十分だった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!