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僅かばかりの木漏れ月が照らす暗い森で、ユカリは柔らかな地面に足を取られながらも何とか男を追いかける。たどり着いた村は森の只中にあった。
狼がまだ森の獣だけで腹を満たしていた時代には神秘の土地と人の野原の間にあった境界の集落だ。今となっては多くの神秘が遠くへ退き、人の野原へと下ってきた狩り人の村である。
ユカリは注意深く村を見つめる。月光を浴びて杉皮葺の屋根が赤みを帯びている。しかし人家には明かりがほとんどない。このような状況でなければ寝静まっているのかと思っただろう。近づいてはっきりと分かる。この村は廃れてしまったのだ、と。
森の木々で造られた家々の窓辺は暗く、村は人の訪れない墓地のように静まり返っている。都と違って家々の間に石畳など無いが、それでも人の往来があれば、このように地面のほとんどが下草に覆われるということもないだろう。人の営みが失われているのだとよく分かった。
何か煌めくものが村の奥にあり、見極めんとユカリは目を細めた。
それは月光の精が戯れ跳ねる湖面だ。古昔には彼岸へと繋がる恐ろしくも有り難き聖域として、四季の折にはさまざまな捧げものを蓄えていた湖だ。今では使いの者が静かな湖面を渡って、此岸へやってくることもなく、湖の恵みにあやかる漁師達を見守る貴くも小さな者どもだけがわずかな信仰を得て微笑んでいた。その湖の縁に沿って弧状に村が伸びている。
村を見渡していると、ユカリは何か小さなものの気配をそばに感じた。下草の揺れが、風のそれとは違っていた。鼠か妖精の類かと思ったが、暗くて何も見えない。何がいてもおかしくない。人のいない所ほど人ではない者が好んで潜むことをユカリは知っていた。
いつの間にか男がいないことにユカリは気づく。とはいえ、この廃村にあってまだ活きている家は二軒しかないようだった。一つは湖のそばで、一つは森のそばで窓辺を灯している。男はそのどちらかに帰っていったのだ。
ユカリは森に近い方の家に向かった。窓には蓋がしてあるが、幼子を迎える両腕のような温かい光が隙間から漏れている。煙突も濛々と煙を吐き出し、人の生活を示している。
ユカリの腹が物欲しそうに鳴る。携帯食の麺麭を川辺に置いてきてしまったことに今更気づいた。合切袋にまだ少し残ってはいるが、今は火と人の温もりが恋しかった。
ユカリは扉に近づき、扉の向こうに声をかける。しかし返事はなかった。ユカリは扉を叩き、同じように問いかける。それでも言葉は返って来ない。
「すみません」ともう一度【問いかける】。「一晩泊めていただけないでしょうか? それが無理なら、せめて少しお話をさせてください。森に迷い込んだ愚かな娘を憐れに思って、扉を開けていただけませんか」
「いいよ」と誰かが言った。
その素直さに不意を突かれ、「え?」とユカリが声を漏らす。同時に、扉の鍵ががちゃりと鳴って、扉が開いた。しかし扉のこちら側でもあちら側でも誰も扉に触れてはいなかった。
扉の向こうの暖かな部屋の奥、暖炉の隣で女性が毛布をかぶって、丸くなって震え、瞳に恐怖を浮かべてこちらを見ていた。
「何で扉、開けられたのですか?」とその女性は消え入りそうな声で言った。
「どうぞどうぞ、温まってください。真夏とはいえ冷える夜ですからね」と言ったのは、その女性ではなく扉だった。
銀貨を要求する海と違って随分親切な扉だ。そのために家主を怯えさせる結果にはなったが。
「すみません」とユカリは敷居の外で申し訳なさそうに申し訳する。「信じてもらえないかもしれませんが、私は扉には触れてもいないんです。何で一人でに開いてしまったのか。壊れてしまったのでしょうか?」
ユカリの言い訳にかぶせるように女性は小さく甲高い悲鳴をあげた。何も恐ろしいことは言っていないはずなのに、とユカリは訝しむ。
「一体、一体何の用ですか? 強盗の人でしたか?」
女性は舌っ足らずな言葉の上に訛りも少しあった。
「いえ、違います、本当に。旅の者です。この森に迷い込んでしまって、どうしたものか、困り果てていたもので。どうか一晩泊めていただけないでしょうか?」
女性の不審の眼差しは一層強くなったように思えた。ユカリは扉の方へ一歩を踏み出したが、それは不用意だった。
女性はさらに大きな悲鳴を上げ、毛布で顔を隠し、這って逃げ、部屋の端に置いてある櫃に縋りついた。いくら相手を不審者だと捉えているとはいえ、子供相手にここまで怯えるだなんて、とユカリは不思議に感じつつも少し悲しくなった。
「あら、お客様? 貴女も旅の方?」また別の女性がユカリの後ろから声をかけた。ユカリは驚いて振り返り、少しだけ硬直する。「どうぞ入って? あの子のことは気にしなくて良いわ。ああいう子みたいだから」
その女性は見覚えのある鉄仮面をつけている。救済機構の焚書官だ。チェスタとは違い、素朴な仮面であることから平の焚書官だと分かる。ただしあの冷酷な黒の僧衣ではなく、魔法使いが纏うような長衣、それもあり合わせの布で拵えたような襤褸を身につけている。
ユカリは戸惑いつつも顔に出さないようにして、家の中へと招かれるままにお邪魔する。暖炉の温めた部屋の空気はユカリを大いに歓迎しているように思えた。それに反して、毛布をかぶった家主らしき女性は小さな悲鳴をあげてさらに後ずさりして抗議する。
「なぜその人を入れますか、毛布? ケトラの知っている人ですか?」
ケトラと呼ばれた女性は呆れた様子で答える。「今、知り合ったわ。それに見た感じ悪い人じゃなさそう」
「そんなの分かりませんかもしれません。巨人の下僕だったらどうしますか?」
ケトラは抱えた荷物を机の上に広げていく。どれも食料のようだった。
「知ろうとしなきゃ分からないわよ」そう言ってケトラは鉄仮面を外し、ユカリに向かって片目を瞑る。「でもこんなに可愛い巨人の子を退治するのは心苦しいわね」
ケトラはまるで絵に描かれた人物のようだ。柔和な眼差しに均整の取れた口元の微笑み。艶めく亜麻色の巻き毛に、深い胡桃色の瞳。
ケトラをただ見ているだけでユカリは心を包み込まれるような、あるいは心を曝け出してしまったような気持ちになった。
「きょ、巨人じゃないです。普通の人間です」とユカリは慌てて否定する。「旅人です。ユカリといいます」
ユカリは悪戯をして顔色を伺う子供のようにケトラを見つめる。
見た目は豊饒の女神か聖母のような雰囲気のケトラだが、ユカリが想像していた以上に大きく口を開けて豪快に笑った。
「分かってるわ。普通の人間の女の子のユカリ。よろしくね。私はケトラ。焚書官で、この森に現れた巨人退治に派遣された魔法使いの普通の女よ。この家で何日か前からお世話になってる。あの子はもう名乗った?」
ユカリは責めている風に取られないように控えめに首を横に振った。
「そうだと思った」そう言ってケトラはため息をつくと、部屋の隅の方へ振り返る。「さあ、しゃんとして名乗りなさい。どう見ても貴女の方が年上よ?」
そうなのだろうか、とユカリは思った。毛布に包まるその女性の顔立ちは随分幼い。女性がおどおどと立ち上がり、意を決した表情でケトラに縋りつく。ケトラに再び促され、ようやくその女性はおずおずと、ユカリに目を合わせることもなく名乗る。
「否応なしに訪れる幸運です。よろしくお願いです」
短いが、ユカリには発音しにくい名前だった。どこの出身なのか見当もつかない。
「はい。ユカリです。怖がらせてしまって申し訳ありません、レマさん。私、この森に迷い込んで、他に行く当てもなくて」
「なあに? 迷子なの?」ケトラは呆れた様子で言う。「たまたまこの村にたどり着いたってこと?」
「偶然というわけでもないんですけど。改めて、レマさん、今晩泊めていただけますでしょうか?」
中々返事をしないレマの背中をケトラがぽんと叩く。レマは渋々といった様子でこくりと頷いた。
よくよく見るとユカリの見たことがない顔立ちだった。どこか鼠や兎のような小動物を思わせる。波模様の入った紺の肩巾で頭を覆っていた。溢れる長い白髪は、砂漠の国の絨毯のように複雑に編み込まれている。髪も眉も睫毛も肌の色も唇の色までもが白い。ただ瞳の色だけは黄昏のような青紫色だった。背は高いが、起伏の少ない細い体つきだ。
「さあ、挨拶はそれくらいにして」と言ってケトラがぱちんと手を叩くと、レマは直に叩かれたかのようにびくりと跳ねた。「少し遅くなったけれど食事にしましょう。沢山持ってきて良かったわ」
机の上に広げられた食材は多種多様だった。湖で獲れたものだろう干し魚の他にも、ユカリの良く知る鹿や兎の肉、豆や麺麭、酢漬けの野菜に干し茸。全体的に色は悪いが。
「一体、こんなにどうしたんですか?」
ユカリの当然の疑問を焚書官ケトラは受け流す。「話は後よ。ユカリ。貴女、料理は出来る?」ユカリが頷くと、まるでそれがケトラにとっても誇らしいことかのように微笑む。「いいわ。レマも手伝うのよ。さあ、やるべきことは沢山あるわ」