ユカリは肉料理を担当した。とはいえ、魚醤を塗った肉を焼くか、焼いた肉に魚醤を塗るくらいしか出来なかったので、ケトラに多くを助けてもらい、いくつかを教わった。
ケトラは手際よく食材を調理していく。ひよこ豆の吸い物、茸の蜂蜜煮、虹鱒の香草焼き。酢漬けの野菜には、何か気に食わなかったのか塩と蜂蜜を加えていた。
レマは味見を担当しながら、余った食材を壺に片づけていた。当然すぐに手持ち無沙汰になっていたが、ケトラは要領よくレマに仕事を与えていた。机の上を片づけさせ、暖炉に薪を加える。レマに薪を与えられた火はよく喜んでいた。
「さあ、後はもう大丈夫よ」と料理が完成する直前にケトラは言った。「レマ、祈りを捧げてきなさい」
レマは素直に頷き、暖炉の前で跪き、火の働きに感謝の祈りを捧げた。飾り棚には、手を取り合って琥珀を抱く小さき二柱の神安寧の番が鎮座している。
ユカリは少し不思議な光景に疑問を呈した。「ケトラさんは救済機構の焚書官ですよね?」
「あら、よく分かったわね。ユカリは物知りなのね」
皮肉ではなく本気でそう思っているようにユカリには聞こえた。
「あの仮面に見覚えがあったので、それより神々への祈りは救済機構にとって異教の習わしですよね」
「ああ、そのことね」とケトラはなんでもないことのように言った。うーん、と小さく唸り、続ける。「別に救済機構は異教徒に改宗を強要したりしないのよ。基本的には他の信仰を尊重しているわ。少なくとも私はそう学んだけれど」
基本的に、とユカリは頭の中で繰り返した。それは容認できない物事もあるということだ。魔導書がその一つだろう。
湯気が溢れ、香気を放つ料理を食卓に運び、並べ、皆が席に着く。食事を始める前にそれぞれの信仰に祈りを捧げた。ケトラは未だ来たらぬ救いの乙女に、レマはマールクと遠い故郷の祖神に、ユカリは義母と義父に教わった数多の神々と個人的に好きな英雄に。
「それで、この食料はどうされたのですか?」と塩気の強い熱いスープを飲んで、ユカリは尋ねた。
「そこら辺の家から貰ってきたのよ」とケトラは事もなげに言った。
ユカリは咳き込むが、飲んだスープが戻ってくることはなかった。
「それは泥棒じゃないですか!?」
「そうかもしれない。でもしばらく誰も戻って来ないわ。それとも腐らせることが正しいこと?」
「本来の持ち主が食べるのが正しいんです」
「もう、ありえない仮定を持ち出すのはやめてよ」と言いながらケトラはレマが好んでいるらしき料理を譲っていた。「巨人がいる限り誰も戻っては来ない。そうでしょう?」
「そうでしょうけど、でも。それに機構の教えには反しないのですか?」
「生き残るのが先決だし、安息なしに生きているとは言えないもの。救いの乙女だってお許しくださるわ。むしろ食べ物を粗末にする方が罰当たりというものよ」
レマはユカリとケトラのやり取りを横目で見つつ、おっかなびっくり食事を進めている。ユカリと目が合うと少し離れるように体を傾けた。
「いえ、そうですね」とユカリは納得する。「偽善的だったかもしれません。そう、そういう場合ではないんですよね。命には代えられない」そう言ってユカリは、しかし二人と違って迷い込んできた旅人に過ぎない自分は構わないのだろうか、という疑問と共に吸い物を一気に飲み干す「それで、そもそもこの村で一体何があったのですか?」
ユカリはより詳しく知っていそうなレマの方に視線を向けたが、彼女はさらに縮こまり、猫を前にした鼠のように震え出した。とても答えられそうにない。
代わりにケトラが答える。
「私も人づてに聞いたに過ぎないのだけど。数週間前に突如現れた巨人がこの村を襲ったらしいわ。何人が殺され、何人が逃げ去ったのかは分からない。生きて残っているのはレマと榛さんだけ」
レマはユカリの目の前にいる。デルムについてユカリに心当たりのある人物は一人だけだ。
「デルムさんって男の人ですか?」とユカリは尋ね、どんな人物だったか思い出す。「白い口ひげを生やしていて、その、ちょっと口の悪い」
ケトラは苦笑しつつ答える。「そうそう、その人。もう会っていたのね。私も挨拶した時に散々罵られたわ」
「お嫁さんはとても良い人だったのに」とレマが寂しそうに呟く。
レマの悲しげな表情を見て、デルムの妻がどうなったのか、ユカリは聞かないことにした。
「なぜレマさんは、デルムさんも、ここを離れないのですか?」とユカリは当然の疑問をぶつける。
レマはこれでもかというほどに大きく首を振って、答えることなく答えを示した。要するにこの村を、あるいはこの家を出ることすら恐ろしくて出来ないのだろう。
ケトラは子供をあやすように、レマの背中を撫でる。そして宙を探すように視線を向けて呟く。「デルムさんはどうなのかしらね」とケトラは呟く。「お年の割には体力があるようだけど」
何か事情があるとすれば、とユカリは想像するが、あの頑固そうな性格が邪魔するのかな、としか思えなかった。
巨人を退治するしかないということだ、とユカリは一人納得した。その為にケトラはここへ来たのだろう。
ユカリはまだまだ沢山ある料理を眺めながら、首を傾げる。
「でも、何で一人なんですか? ケトラさん。巨人を一人で退治するんですか?」
「まさか、そんな訳ないじゃない」と言ってケトラは楽しそうに笑った。「まあ、私もそれなりに自分の能力を自負してはいるけれど、巨人相手に単身挑むほど自惚れてはいないわよ。私は調査係兼誘導係、いうなれば囮ね。他の者は森の外に待機しているわ。森の中では、人員が多いと上手く連携が取れないだろうし、いったん外に誘き寄せる作戦なの。そもそも近くにある洞窟を塒にしている可能性が高いのよね。そこから追い出すための魔法も準備を進めているところよ」
ユカリは少しばかり身を乗り出す。「私に何か手伝えることはありますか?」
「そう言われても」と呟いてケトラはユカリの瞳をじっと見つめる。「ユカリが何を出来るのか知らないもの」
ケトラの困った表情を見て、ユカリは慌てて弁解する。
「ええと、それなりに戦えると思います。多少、攻撃的な魔法が使えるので」
「そうなの? 別にお願いするつもりもないけど、でもまあ、もし当日まだこの村にいるのなら、レマやデルムさんを守ってくれる?」
ユカリはその言葉を受け入れる。要するに断られた訳だが、用意された作戦に今から新たな人員を組み込むことは容易ならざることだろう、と自分に言い聞かせた。
「はい。お任せください」そう言ってユカリは、甘酸っぱい調味料の兎肉にかぶりつく。
レマから送られる視線にはまだ恐怖と不審があるように思われた。自分の食事の一口にさえいちいち警戒しているようで、口に放り込む直前まで威嚇するように匙の先を睨みつけている。
ケトラはそんなレマに食事を勧めつつも、自分自身は一口二口食べただけのようだった。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
少女は覚えたばかりの文字を使って、自分だけのノートに自分だけの物語を書き綴っていた。心の中の友達は勇気と慈愛に満ちていて、時に少女を守り、時に少女の手を引いた。二人の冒険は永遠に続いた。
ごつん、という鈍い音を聞いたのは夢の中だったのか現実だったのか、ユカリはすぐに判別できなかった。微睡みの浅瀬まで浮かび上がり、もう一度何かが何かにぶつかるような音を聞いた。ユカリは寝台の上で身を起こす。
隣にはレマが無防備に子猫のように丸くなって寝息を立てている。一つの寝台で二人が眠ることに決まった時、照れもあって端と端で横になったが、今はすぐそばにいる。この家の寝台はそれで全てだったので、ケトラは隣家で寝ることになった。だからこの場にその姿はないし、それゆえに初めはケトラが玄関の扉を叩いているのかとユカリは思った。
しかしもう一度何かがぶつかった時、それは玄関とは反対側の湖の方の壁だと分かった。ユカリは暗闇で目を凝らし、慎重に寝台を降りる。するとレマが小さな悲鳴をあげたのでユカリは振り返った。
薄暗闇の中でレマは両手で顔をかばうようにし、口をぱくぱくと開閉するだけで言葉は何も出さなかった。そうこうする内に再び何かが家にぶつかり、レマはさらに甲高い悲鳴をあげて毛布に包まりながら寝台から転げ落ちた。