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存在が存在として成立するとは、いかなる事態を指すのだろうか。この問いは、西洋哲学史において繰り返し検討され続けた根源的問題である。例えば、デカルトは思考する主体の自己明証性のうちに確実性を求め、カントは対象が現象として成立するための認識主体の統覚作用を論じた。またヘーゲルは、主体と客体が相互承認を通して自己意識を獲得する弁証法的過程を提示した。これらの議論に共通するのは、存在が純粋に孤立した実体として成立するのではなく、必ず何らかの認識構造、あるいは承認構造の内に位置づけられるという洞察である。
この観点からすると、存在が存在として認識されるためには、認識主体という他者の働きが不可欠となる。しかしその認識主体もまた、自らが存在として成立するために、別の主体による承認を必要とする。この関係を突き詰めれば、存在の成立は相互承認的な循環の連鎖の中でしか可能ではなく、単独の自己基盤を持ち得ないことが明らかになる。これは哲学における「無限後退」の問題構造に似るが、単なる後退ではなく、むしろ社会的実在の基盤そのものが循環的かつ相互依存的であることを示すメタ構造として理解できる。
ここにおいて、存在は個体としての自立性を超え、「関係」としての存在論的地位を帯びる。
この相互承認の無限連関は、人類史そのものにも反映されている。歴史を遡れば、人類は文明を形作り、発展させ、また衰退させてきた。その過程には、集団間の承認を巡る葛藤、争い、支配、同化といった作用が常につきまとった。承認が獲得できないとき、あるいは承認構造が崩壊したとき、共同体は分裂や暴力へと傾斜する。逆に、承認がある程度安定するとき、文明は安定し、文化が成熟する。しかしその成熟も永続的ではなく、別の承認要求や価値観との衝突を経て、再び揺らぎが生じる。こうして文明は反復的構造を帯び、生成と解体を繰り返してきた。
しかし現代において、この歴史的反復が直線的には再現されない兆候がある。それはしばしば「多様性の尊重」「人権意識の向上」「グローバル化による価値観の変容」などによって説明されるが、そこでの構造はそれほど単純ではない。現代社会が表向きに掲げる寛容性は、しばしばその裏側で別様の排除メカニズムを作動させている。たとえば「差別は許されない」「多様性を尊重すべきだ」という規範は、確かに理念としては普遍的であり、倫理的に肯定すべき内容を含む。しかしその理念を共有しない者は、「非常識」「社会の埃」「教育不足の象徴」といった言葉で切り捨てられ、表象的には旧時代的な差別者とみなされて周縁化される。
これは一見すると健全な価値判断に見えるが、その実、別種の規範的圧力を生み出している。というのも、「寛容性を持たない者は社会から排除されるべきだ」という論理は、寛容の名のもとに新たな不寛容を生み出すからである。フーコー的に言えば、これは権力の布置が形を変えて作動している状態であり、差別の廃絶を掲げる言説が、別の差異を差別の対象へと転化するというパラドックスを孕む。つまり、寛容社会は自らが排除しているものを不可視化しながら成り立っているのである。
この不可視化は、現代社会の経済構造にも見られる。テクノロジーが発展し、物流・情報・インフラがかつてない速度で発達した結果、我々は表面的には「便利で効率的な社会」を享受している。しかしその利便性の裏側には、極めて劣悪な環境で働く労働者、低賃金かつ不安定な契約で支えられるサービス層、さらには実質的に選択の自由を奪われた状態で働かざるを得ない人々が存在することがある。これは経済学的には「外部化されたコスト」の問題にあたるが、倫理学的には「不可視の他者」をどのように扱うかという問題に直結している。
我々はしばしば「現代社会は歴史上もっとも平等で平和的な社会だ」と楽観する。しかしその評価は、構造の深部に潜む権力関係や労働の非対称性を見ようとしない態度に支えられている。つまり、現代社会の平等や寛容は、表象的な水準では普遍的な価値として共有されるものの、その実体はきわめて選択的であり、社会の中心に近い層がその恩恵を主に受け、周縁へ押しやられた人々が犠牲となる構造は依然として存在する。
ここで問題となるのは、我々がいかにしてこの不可視の構造を認識しうるかという点である。前述したように、存在は承認によって成立する。しかし承認には常に選択性があり、社会的に可視化された存在だけが承認の対象となる。他方で、不可視化された存在は、存在しているにもかかわらず「存在しないもの」として扱われる。これはフッサール的に言えば「現象化されない地平」の問題であり、ハーバーマス的に言えば「討議の場に立つ権利の剥奪」である。このように、認識の枠組みに乗らない存在は、倫理的対象としての地位すら保証されない。
ゆえに、現代社会における根本課題は、単に倫理的理念を掲げることや、制度的改革を進めること以上に、「不可視化の構造を可視化し得る認識主体をどのように形成するか」という問題にある。価値観が多様化し、情報が氾濫する現代において、他者の痛みや不平等を感知する能力そのものが低下しているとも言える。これは単なる道徳心の欠如ではなく、社会構造が認識の地平を意図せずして限定してしまうという、構造的な問題なのである。
このような状況を踏まえるとき、我々が向き合うべき課題は次のように整理できる。
第一に、特定の価値観に基づいて他者を排除する構造――すなわち「非常識」「社会の埃」といったラベルの付与――を批判的に分析し、その規範性がどこから生成し、いかなる権力関係を維持しているのかを理解することである。
第二に、不可視化されている労働や人間の存在に目を向け、それらが社会を支える不可欠な基盤であることを認識することである。
第三に、認識主体としての我々自身が、どのような認識枠組みを前提として世界を理解しているのかを自問し、その枠組みの限界を自覚することである。
これらの営みは、単なる社会改善のための技術的・制度的改革ではなく、我々自身の存在そのものの再定義を促す哲学的作業である。相互承認の連鎖の中でしか存在が成立しない以上、他者の存在を尊重することは、同時に自らの存在条件を整えることでもある。したがって、現代社会の課題を解決しようとする行為は、外部の問題を処理する作業ではなく、むしろ我々の存在論的基盤を再構築する取り組みとして理解されるべきである。
社会とは、単なる制度の集合ではなく、相互承認の網の目から構成される動的な存在である。その網目がどのような形で編まれているのかを見極め、その歪みを正すことこそが、我々が未来に向けて果たすべき責任である。不可視化された他者を可視化し、排除の論理を超克し、存在が存在として成立する条件を公平に拡張すること――これが現代に生きる我々にとって最も根本的で、かつ避けて通れない課題なのだ。