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「さーて、いきますか」
指定した時刻の直前に、個室の扉を開けて登場する豆さん。
先ほどのパートナー勢の会議後とは打って変わって再びエネルギーを感じさせる声と佇まいだから感心する。
「え、何でそんなに見られてるの俺。なんか変?」
「いえいえ、この時間なのに随分元気そうだなと」
「そう?」
いつもよりだいぶ疲れてるけど俺。
それでいつもより疲れてるなら日頃は一体どういうテンションで生きてるんだろう。
「歩いても行ける距離ではあるんだよね」
偶然エレベーターには他の乗客は乗って来ず、2人で筐体の中に静かに立つ。
「あ、そうなんですね」
「歩くと10分ぐらいかなあ」
「今からだと予約時間ギリですけど、歩けないこともないですね」
歩いていきましょうか。
経営層になればなるほどタクシーの利用頻度が増えるのは、決してお金持ちになったからではない。コスパタイパの概念からくる合理的な選択肢である、というのは社会人になって理解した。
けどね?
今はプライベートだし、無駄なお金使うのは貧乏性が許さない…
「いやいや、タクシー一択で」
お金持ちパートナー豆さんは、さらりと言ってのけるので、何となく深追いしたくなる。
「え、なんでですか。プライベートなんだし歩きましょう」
「無理です」
意外な返答が投げかけられて少し驚く。ちょうど1階に到着し、軽快な電子音と共に扉が開く。
足が早いはずの彼が、ずっと隣を歩いていてくれるというのは、すなわち私の歩速に合わせてくれているということの証左で、勝手に胸がくすぐったくなる。
「無理って何ですか」
「そんな靴履いてるのに歩かせるわけに行かないでしょう、あと暑いし」
豆さんが私の足元をチラリと見やる。
「あ…」
つられて視線を落とし、私がいつも通りの細めのヒールを履いていることを思い出す。
「すみません、歩き慣れてるので全然歩けますよ」
ヒールなら履き慣れてるから、10分の距離なら歩ける。気にしないでと言おうとすれば
「暑い中歩いて、足が痛くなるかもしれなくて。それじゃ食事に集中してもらえないでしょう」
「…多分話に集中できないことはないんですけど。ありがとうございます」
一周回ってわけのわからない気遣いをありがたく受けて、通りを流していたタクシーを拾う。
「セントラルホテルまで」
豆さんが静かに告げた行き先を聞いて、私は自分が行き先を聞いていなかったことを思い出す。
「え、随分かしこまったところ行きますね!?」
「そう?こないだの仕事のお礼と思えば当然だろ」
無防備にシートに背を預ける姿に思わず引き込まれる。
彼はふう、と息を吐きながら首元に指をかける。グッとネクタイを緩める仕草は、決して会社で見ることのない姿。普段はきっちりスリーピースを着こなしている人が醸し出すラフな雰囲気は、反則が過ぎる。
流石にこの顔見られたら言い訳のしようがないな。
思わず頬に熱が通い、バレないように慌てて窓の外に顔を向ける。なのに、「げ」と色気とは程遠い声が聞こえて反射的に元の方向を向いてしまう。台無しだ。
「どうしました」
「ホテルってネクタイいる?」
今ウッカリ外しちゃったんだけど。
大きい手のひらに収まるネクタイを弄びながら、眉根を寄せている姿に思わず吹き出してしまう。
「…何」
ジトっと見つめる表情は、日中の毒気のようなものが抜かれて少年のようなあどけなさがある。
「意外と可愛らしいこと言うんだなと思ってつい」
「失礼だな」
弓家さんって結構忖度しないよね、と文句を吐いた後、ふっと微笑むから、多分怒ってはいないんだろう。「ネクタイはなくて大丈夫だと思いますよ」と一応のコメントをお送りすれば、そうか、と豆さんはおとなしくカバンにネクタイをしまう。
「ネクタイ外したら、俺の中ではもう仕事終わりっていう合図だからさ」
「そうなんですね」
「もう一度着けるのは死んでも嫌なワケ」
「…なるほど」
それは、私でいうとストッキングみたいなものですかね?
「…その話題の振り方ちょっとやめてもらえる」
俺何言ってもコンプラ的に引っかかりそうなんだけど。
「確かに」
そういうのあんまり気にしないタイプかと思ってました、意外ですね。
「ねぇほんと、弓家さん俺のことなんだと思ってんの」
ひどく困り顔の上司というのも、時にはわるくないのかもしれない。
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