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季節外れの長雨が、遊郭「朧月夜」の極彩色を重く濡らしていた。
朱塗りの高欄も、色鮮やかな暖簾も
降り続く雨に彩度を奪われ、どこか病的な陰りを帯びている。
雨の日は、あやかし達の負の情動が強く引き出されるという。
屋敷の長い廊下を歩いていても
薄暗い柱の影や天井の隅から、湿り気を帯びた粘りつくような視線を感じて
私は思わず胸元に抱えた懐中時計を強く握りしめた。
「おや、刹那様の愛玩動物じゃないか。一人でお出かけかい?」
背後からかかった、這いずるような声。
振り返ると、そこには見慣れぬ男が立っていた。
蛇の化身だろうか、瞳は細く縦に割れ、口角を不自然なほど吊り上げている。
その細長い舌が、チロチロと唇を湿らせる様子に、総毛立つような不快感が走る。
「……せ、刹那様にお遣いを頼まれているのです…!急いでおりますので、お通しください」
精一杯の勇気を振り絞って言い返すが、男は私の行く手を遮るように壁に手をついた。
逃げ場を塞がれ、蛇の這うような独特の体臭が鼻をつく。
「ふん、あの偏屈な鬼が女を囲うとはね。よっぽど美味い蜜でも持っているのか……」
「なあ、少し味見させてくれよ。どうせあいつに喰われる運命なんだろう? なら、俺が先に毒見してやってもいいぜ」
男の細長い指が、卑猥な手つきで私の喉元に伸びる。
恐怖で声が出ない。
蛇の冷たい肌が触れると思った、その瞬間だった。
「───その汚い手を退けろ」
激しい落雷のような轟音と共に、廊下の空気が一変した。
衝撃波に目を閉じ、再び開いたときには
私の目の前に広大な、夜の海のような紺青の背中があった。
「せ、刹那様……!」
「……消えろ。二度目は言わぬ」
刹那様が放つ凄まじい殺気は、物理的な質量を持って廊下を圧し潰した。
蛇のあやかしたちは、悲鳴を上げる暇もなく腰を抜かし
這いつくばるようにして闇の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。
激しい雨音だけが周囲を包む中、刹那様はゆっくりと私の方を振り返った。
だが、その瞳を見て、私は息を呑んだ。
緋色の瞳は以前よりもさらに深く、血の滴るような赤色を湛えて爛々と輝いている。
彼は私の肩を強い力で掴むと、そのまま抗う隙も与えず、荒々しく壁へと押しつけた。
「……あ、ありがとうございます。せ、刹那、様……?」
「お前は、俺のものだと言っただろう。……誰にも、触れさせるな。俺以外の視線も、言葉も、一欠片もお前に触れることは許さぬ」
彼の熱い吐息が耳元にかかる。
それは甘い花の香りと、どこか飢えた獣のような生々しい匂いが混じり合っていた。
首筋に、ひんやりと冷たい牙の先が触れる。
鋭い痛みが走ると同時に、体の中を痺れるような熱が駆け巡った。
彼の喉が、ごくりと鳴るのが聞こえる。
(喰べられる……?今、この人に…)
けれど、死の恐怖以上に私の胸を支配したのは、彼にこれほどまでに強く求められているという
狂おしいほどの悦びだった。
彼に喰らわれることで、永遠に彼の一部になれるのなら、それでも構わないとさえ思ってしまう。
その時、私の手の中で懐中時計が「カチッ、カチッ、カチッ!」と激しい音を立てた。
驚いて目元に時計を持ってくると、針は猛烈な勢いで逆回転を始めていた。
それは、彼の「捕食衝動」ではなく
私への「独占欲」が愛という猛毒に変わり、制御不能になりつつある証拠だった。
「……緒美、逃げろ」
刹那様が苦しげに顔を歪め、私を突き放した。
彼は自らの爪で、自分の腕を深く引き裂いている。
噴き出す鮮血。理性を繋ぎ止めるために
自分を傷つけて私への渇望を抑え込もうとしているのだ。
降り頻る雨に打たれながら、必死に自分を律しようとする彼の姿。
それはこの街を統べる最強の鬼とは到底思えないほど、脆く、傷ついた子供のようにも見えた。
私は彼を愛してはいけない。
けれど、血を流してボロボロになりながら私を守ろうとするその背中を見て
私の心は、時計の針よりもずっと速く
彼の方へと傾いていくのを止めることができなかった。
#王子