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そう思って北条くんを恨めしげに見上げたところでエレベーターが来て。
私は壁に身体をずりずりこすり付けながら箱内に乗り込んだ。
「壁掃除でもするつもりか」
私が箱に入るのを見届けた北条くんが、嫌味を言いながらもエレベーターに入ってきて一階ボタンを押してくれる。
足利くんの部屋は六階だったから、エレベーターがないとキツイだろうなぁと、それよりもっともっと高い上層階に住んでいるくせに、そんなことを思ってしまう。
(あ、でも。もうあそこにはいられないんだ)
そう思ったら、何となく寂しくなって鼻の奥がツンと痛んだ。
ジワリと滲んできた涙を誤魔化すように鼻を啜ったと同時に一階に着いたエレベーターの扉が開いて。
北条くんが、ドアが閉まらないように「開」ボタンを押してくれているのを横目に見ながら、「有難う」と言いながら外に出た。
歩いた振動で、ポロリと涙がこぼれ落ちて、北条くんに背中を向けていてよかったって思っていたら。
「――春凪っ!」
不意にすぐそばから幻聴が聞こえてきて、私は「へっ?」と間の抜けた声を出す。
でも――。
ギューッと苦しいくらいに私を抱きしめてくるこの腕は、幻覚ではないような……?
鼻水出ちゃう、とか思いながらスンッと吸い込んだ空気と一緒に、嗅ぎ慣れたマリン系の香りが肺を満たして、私は戸惑いに固まってしまう。
「苦しっ……」
本当に苦しいわけではなかったけれど、身動きが取れなくて不安だったから。
少し腕を緩めて欲しくて小さく声を漏らしたら「すみません、つい」と声がしてほんの少しだけ私を押さえつける力が弱まった。
それで恐る恐る腕の主を見上げたら、最初から声と匂いで分かっていたけれど「宗親しゃっ……」だった。
宗親さんが、腕の中の私をとても苦しそうな表情で見詰めてくるから。
私までつられて心臓がキューッと締め付けられてしまう。
「な、んで……」
――宗親さんがここに?(会いたくなかった……)
心にモヤモヤを抱えたままそう問い掛けるより先、宗親さんが北条くんの方を振り返って「経理課の北条くんですよね?」と言って。
今更のように北条くんの前でこんなラブシーンまがいのことをっ!と思った私はにわかに恥ずかしくなってしまう。
でもそんな私の気持ちなんてどこ吹く風。
宗親さんは私を逃してくれる気なんてさらさらないみたい。
北条くんと話しながらも、宗親さんの腕は私が抜け出せない程度にはしっかりと腕を絡めたままだったから。
私、こっそり逃げ出したくても逃げられないの。
「Misokaに連絡を下さったのはキミですよね? 本当に助かりました。有難う」
言って、宗親さんが北条くんに頭を下げる気配がして、「――お礼はまた後日改めてさせていただきます」と付け加える。
その一連のあれこれに、宗親さんにしっかり捕まえられたままの私は「えっ?」と思ってしまう。
あのプライドの高い宗親さんがこんなにあっさりと人に――それも自分より目下の男性に頭を下げるだなんて信じられなかったから。
それも、多分私絡みのことで――。
「いえ、Misokaを出る前にマスターから頼まれたので約束を果たしたまでです。予約をしたのに店を変えるという非礼もしてしまいましたし、何より彼女のことを誰かが迎えに来てくれると言うなら、俺も酔っ払いの面倒を見なくて済みます。――お互い様ですので礼には及びません」
二人の会話を宗親さんに羽交い締め――ではないけれど気分的にはそう!――にされたまま聞くとはなしに聞いていた私は、そこにMisokaのマスターが絡んでいると聞いて「へ?」と思う。
Misokaのマスターに頼まれてお店に連絡?
ん?
Misokaのマスターってそんなお節介焼きなことまでしてくれるの?
え⁉︎
ソワソワと宗親さんを見上げたら、小さく吐息を落とした宗親さんから「Misokaのオーナーの明智統和と僕は、大学時代からの腐れ縁なんです」と信じられない告白をされてしまう。
マスターと宗親さんが繋がってるなんて初耳なんですけど!
同期会をする場所を決めあぐねていると話した時、「春凪行きつけのMisokaにすればいいんじゃないですか?」と提案してくださったのは宗親さんだった。
足利くんたちにどうかな?って話したら「じゃあそこで」って話になって……幹事を引き受けてくれた北条くんが予約などの手配をしてくれて。
あれも実は宗親さんの手のひらの上で踊らされていたってこと?
今日は宗親さんに見つかりたくなくて、集合場所として彼に知られていたMisokaに行くのを避けたのに。
Misokaのオーナーや、北条くんにまで捜索の魔の手(?)が伸びていたんじゃ、意味がなかった!
宗親さんの腕に閉じ込められたまま、自分のアホさ加減にフルフルと震えていたら、宗親さんが腕の力をほんの少し強めてくる。
「春凪、頼むから逃げないで? 少しでいいから僕に弁解する機会をください」
一方的に関わりを遮断しないで?と力なく付け加えられてしまっては、宗親さんに甘々な私は引き下がるしかないじゃない。
そもそも弁解したいってことは……宗親さんは私のこと、要らないわけじゃないと思っていいのかな?
あんな大切なことで私を騙していたのにもちゃんと理由があるって期待しても……いいの?
だったらその理由を聞いてみたい。
そう思って。
「分かり、ました……」
フッと身体の力を抜いて「もう逃げないので離してください」と言ってみたけれど、信用ないのかな?
宗親さん、全然腕を緩めてくれないの。
「あの……」
ぽんぽん、と宗親さんの腕に触れてみたけれど、宗親さんは一向に私を離してくれないから。
私はソワソワと北条くんの様子を窺った。
こんな状態、同期には余り見られたくない。
そう思って、恥ずかしさに〝望まぬ現状に困っていますアピール〟で眉根を寄せたら、
「――柴田春凪。とりあえず一旦冷静になれ。嘘をつかれたとショックを受けて俺たちの前で泣いてしまう程度には織田課長のことが好きなんだろう?」
って特大の爆弾を落とされた。
途端、宗親さんがピクッと反応したのが分かって。
私は慌てて「ち、違っ!」と北条くんの失言を否定した。
宗親さんの前で「好き」とか勝手にバラさないで!
偽装結婚なのに本気だなんて知られたら引かれちゃうじゃない!
しかも……その偽装結婚だって、実際は〝嘘っこ〟だったのに。
でも考えてみたら私、宗親さんのことを好きな気持ち、誰にも話したことない。
話したらマズイってちゃんと自覚しているから。
なのに――。
北条くんのバカぁ! 勘が良すぎるのもここまでくると腹立たしく思えてしまうよ。
宗親さんの腕の中でキッ!と北条くんを睨みつけたら、
「とりあえず、邪魔者は帰ります。あとはお二人でゆっくりどうぞ」
彼にフッと鼻で笑われて、私は宗親さんに抱きしめられたまま、「北条くんのバカー!」と叫んでいた。
***
「え、えっと……い、今のは、そのっ、ほ、北条くんの勘違いでっ」
北条くんが、私の罵声なんてちっとも気にしていない風に、振り返りもせず手を振って立ち去るのを呆然と見送って。
私は未だに腕を緩めて下さらない宗親さんにソワソワと言い訳をする。
婚姻届すら出ていない、この何だかよく分からない危機的状況の中、「好き」とかバレたら絶対まずい!
戸籍に傷がないのを理由に、宗親さんが彼に本気になった私をリリースすることなんて簡単に思えた。
どうかスルーしてくださいっ。
そう願う私の思いも虚しく――。
「春凪、さっき北条くんが言った言葉は本当ですか?」
どこか抑揚の感じられない声で宗親さんがつぶやいて。
耳元で落とされた低音イケボのささやきに、私は現状も忘れて鳥肌が立ってしまうほどゾクッとさせられた。