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三階へ立ち寄ってササオについて探りを入れるつもりだったが、その必要はもうない。このまま真っすぐ経理課のある四階へ向かって、杏子を拾おう。そうして落ち着いた場所でササオの彼女だというヤスイアヤナさんとやらのことを聞いてみよう。
岳斗はスマートフォンをスーツの内ポケットへ戻しながらそう思った。
***
杏子の配属先がある経理課がある四階へ辿り着くなり、岳斗はそっとフロアへ続く扉を開けた。
そのまま足音を立てないようゆっくり歩いて行くと、給湯室らしきスペースの中から何やら女性たちの声が漏れ聞こえてくる。
「安井さん、笹尾さん、あれからどうなんですか? 手、お怪我されてるみたいですけど……大変じゃありません?」
「まぁ大変といえば大変なんだけど……幸い利き手じゃないから……割と問題ないみたい」
「でもさすが笹尾さんですよねー。あんな高いところから落ちたのに左手首の捻挫だけで済むんですもの!」
「それです! 正に運動神経の賜物って感じですっ!」
ヤスイを気遣うように口々に彼女の彼氏であるササオを持ち上げる二人の様子に、岳斗は(この面子のなかではヤスイさんとやらが頂点だな)と即座に理解した。
どうやらササオの〝口うるさい彼女〟とやらのヒエラルキーは、シバの口ぶりからも薄々分かってはいたが、女子社員のなかでかなり上位の方らしい。
彼女らからは死角になる場所で給湯室内の様子を窺い見ながら、岳斗はそんな風に思う。
「けど……逆に美住さんはドンくさいですよね!」
ササオについて話していた時とは一転。ククッと嬉しげに取り巻きの一人が笑ったら、それに同調するようにもう一人も「それです。たった数段で足、捻挫して動けなくなっちゃうとか! どんだけ運動神経にぶいの!? って笑っちゃいました」と、あからさまに意地の悪い微笑みを浮かべる。
「安井さんの彼氏だって知っていながら笹尾さんに言い寄るとか……身の程知らずなことするからバチが当たったんでしょうね」
「けど、悪いことしたくせに被害者面してわざとらしく足引きずって歩くの、見ててイライラしません?」
「分かるぅー!」
取り巻きたちの言葉を満足そうに聞きながら、ヤスイが「けど……雄介ったら自分が酷い目に遭わされたくせにあの女の怪我を気にするのよ。優しいのは彼の魅力だけど……彼女としては何かモヤモヤするのよねー」と眉根を寄せる。その芝居掛かった表情の作り方に、岳斗は物凄い嫌悪感を覚えた。それと同時、ササオにヤスイという組み合わせはある意味お似合いだな……と納得する。
小さく吐息を落とした岳斗は、そっとその場を離れた。
――こんなところに僕の可愛い杏子ちゃんは相応しくない。
そう確信しながら。
***
岳斗は正直、コノエ産業開発の内部がここまで腐っているとは思っていなかった。
ここに至るまでの道のりを思い返して、我知らず吐息が漏れる。いや正直なところ、それにも増して腹立たしさで腸が煮えくり返っている。
(ちょっと頭冷やした方がいいかな)
今のまま杏子の前へ姿を現したら、自分が物凄く醜い顔をしていそうな気がして、岳斗はたまたま目についたレストルームへ逃げ込んだ。
幸い中には誰もいなかったので、手洗い場で顔を軽く洗ってからいつも持ち歩いているハンカチで水気を拭うと、鏡に映る自分の顔を確認して、両手で顔を挟み込むようにして頬をぱちぱち叩いて気合いを入れ直す。そうしながら心の中で『よし!』とつぶやいて、鏡の中の自分へ向けてニコッと微笑む練習をしてから、そこをあとにした。
目指す経理課はトイレとは目と鼻の先。斜め前方に見えた。
(あ。あいつら……)
と、岳斗が見詰める先、先ほど給湯室でくだらない噂話をしていた三人が経理課内へ入って行く後ろ姿が見えて、岳斗は思わず舌打ちしそうになる。『いけない、いけない』ともう一度深呼吸をして気持ちを落ち着け直した岳斗は、(こんな環境にいる杏子ちゃんは、きっと心が休まらないだろうな)と思って……。チクリと胸の奥を刺されたような気持ちになった。
だからこそ、せめて自分くらいはのほほんとした春風のような空気をまとって、そんな杏子と対峙したい。
***
岳斗が経理課の入り口へ立ったと同時、ちょうどこちら向きに席が配置されていた杏子と目が合って――。
岳斗は自分に気付いてソワソワと瞳を揺らせる杏子を落ち着かせるように、ふわりと微笑んでみせた。先ほど鏡で確認した通り、上手く笑えているはずだ。
ニッコリ笑いながら杏子へ向けて軽く片手を上げてみせると、杏子がすぐそばの管理職らしき男の席――恐らくはアレが中村経理課長だろう――に何事かを話しに行って……。
ちらりとこちらに視線を投げかけてきたその男が、きまり悪そうに慌てて岳斗から視線を逸らすから。
(僕が弱みを握ってるのを知ってる?)
杏子から転送されてきた音声データのことを思い出してイラッとした岳斗だったけれど、長年かけて培った腹黒スマイルを浮かべて、経理課長へ向けて素知らぬ顔で黙礼をした。
杏子が机の中から小さなカバンを取り出してひょこひょこと右足を庇いながらこちらへ向かってくるのを見詰めながら、岳斗は杏子を支えようと足を踏み出したのだけれど――。
まるでそれを遮るようにサッと立ち上がった女性――ヤスイの取り巻きの一人――が、足を引きずりながら歩く杏子へと近付いていく。
「あら、ごめんなさーい♪」
そうしてそんな声と同時にすれ違いざま、わざとらしく杏子の無事な方の足へ向けてその女の足が突き出されたのを見た岳斗は、自分が外部の人間だと言うことも忘れて経理課内へ飛び込んで杏子を抱き止めていた。
すんでで杏子が転倒するのを阻止した岳斗は、闖入者の自分をうっとりと見上げてくるクソ女を冷めた目で見下ろす。
「杏子ちゃん、大丈夫?」
岳斗の声に、杏子が落ち着かないみたいに「あの、岳斗さん。私、もう大丈夫なので……」と戸惑いに揺れる声音を上げて身じろいだ。
そんな杏子には悪いが、岳斗は杏子を抱きしめる腕を緩める気なんてさらさらない。