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愛しのフェイクディスタンス

29 - 第29話*私の条件*16

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2025年06月08日

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「村野工務店様、失礼致します」


パーテションの隙間を抜けた人物が小さく頭を下げ、そしてゆっくりと顔を上げる。

長さのある前髪が揺れ、覗く瞳が優奈たちを見渡した。そうしてコツ、と床を鳴らし歩き出した彼の、スリムシルエットのネイビースーツ。脚の長さがこれでもかと強調されていて。


「初めまして」


穏やかに名刺を村野に渡す、雅人の姿。


「あら、あらあら? あなた……」


目を奪われてしまうのは、やはり優奈だけではないようで。

恭子は、雅人をジロジロと眺め、やがて鳥肌が立つような猫撫で声を出した。


「やだ! あなた、あれね、テレビとか新聞でも見たことあるわ。朝子が騒いでいたもの」


恭子の反応に、慣れた様子でペコリと軽く一礼し優しい笑みを浮かべる。


(な、なんで!)


確かに雅人は”関わらせてくれるな?”と優奈に念押しした。

しかし、それは経過と結果を報告すると。揉めたりしたならば相談をさせてほしい、と。

確かそんなニュアンスであの朝別れたはずだったのだが。


「瀬戸優奈の身内の者です。体調を崩し退職を希望しておりますが残業代の未払いについてお話をしたく参りました」

「残業代ぃ?」


雅人の色気に惑わされていない村野が大きく顔を歪めた。


「俺は瀬戸に残業しろなんて一度も言っとらん」

「では、奥様と朝子さんがほぼこちらにいらっしゃらない十七時以降、遅くて二十三時頃までは誰がこちらに?」

「そんなの、知らないわよ……それに二十三時っていきなり何を根拠に」


社長と恭子が息ピッタリに否定をすると、雅人は穏やかな笑みを浮かべたまま優奈の隣へ歩み寄る。


「根拠ですか……。うちが懇意にしている調査会社に優奈の出社と退社時刻を調べさせたことと、あとはそうですね。セキュリティ会社の施錠履歴に時間も残っていると思いますし」

「そんな、やだわ、大袈裟な」


優奈はすぐ隣に立つ雅人を見上げ、どういうつもりなのかと顔色を伺うが、その笑みからは何も読み取れない。

ただただ、美しい顎のラインと喉仏に目を奪われるだけだ。


「そうでした。ご挨拶が遅れましたが村野工務店様、以前うちの求人サイトでお世話になりまして、ありがとうございました」

「あ? そうなのか?」

「数年前、営業が一度、こちらに伺ったことがあるようです」


知らなかった! と、優奈は声を出しそうになるのを何とか堪えた。

その時に優奈は村野工務店にはいなかったのかもしれないが……全く関わりのないところで生きていた気になっていたが、世間は狭いものだ。


しかし、優奈が呑気にそんなことを考えている間にも村野と雅人の会話は続いていた。


「ああ、そういうことか、求人な。お若い社長さんよぉ。だったらちょうどいいじゃねーか。こっちはあんたの身内に迷惑かけられようとしてんだよ、次の事務員の募集は大きく載せてくれよ、もちろんタダでな」


どうやら客側だったことで、村野は強く出たようだ。

ペチペチと雅人から受け取った名刺をデスクに打ち付けながら、口調を荒くした。

そんな二人の間に、どこで口を挟もうかと模索する優奈だが、タイミングを計れないまま。

相変わらず落ち着いた口調のまま雅人の声が続いた。


「そうですね、もちろん喜んで対応させていただきます。そして私の父にも謝罪をさせましょう、優奈が大変お世話になりましたので」

「ああ? 父親ぁ?」

「はい。申し遅れましたが、父は高遠一級建築設計事務所を経営しています。過去、住宅のみを手がけていた頃はこの辺りでよく仕事をしていたので村野様もご存知かもしれないですが」

「高遠先生!?」


村野が、雅人から手渡された名刺をマジマジと見下ろし、「高遠……」と呟きながら顔を上げる。


「はい」

「そ、そうでしたか! 高遠先生の息子さん! いや、それは知らなかった。最近は先生も仕事をセーブされてるんですかね、昔のように個人住宅を手がけておられるとか」

「そのようですね」

「いやいや、これは。また高遠先生にご挨拶ができればと思っていたんですが、なかなか今はご縁なく。父の代の頃にはそれはそれはお世話になっていて」

「ありがとうございます。では、事細かく伝えてもよろいしでしょうか」



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