「偶然ですね、紫音さん。このマンションにお知り合いでも?」
城咲は植木鉢を胸に抱えながらいつもの笑顔を向けた。
「……どうして、ここに……?」
声が掠れる。
もっと他に言うべきことがあるはずなのに、紫音の口をついて出た言葉は、疑問だった。
「あ、僕ですか?実はこのマンションの植物インテリア全般を任されていまして。エントランスからーーのろーーーで、季節ーーせた花ーー葉植物をーーーー。ちなみに、うちのマンションのーーーだっー、僕がーーーぶーー」
質問したくせに彼の言葉は途中から耳に入ってこなかった。
(先輩は……!?)
紫音は城咲の背後を見つめた。
右。
左。
(いない……?)
「……城咲さん!」
叫ぶと、
「あ、はい?」
話を中断された城咲は間の抜けた声を出した。
「助けてください……!!」
紫音は城咲の植木鉢を抱えた腕にしがみ付いた。
「追われているの……!助けてください!!」
「え……?」
植木鉢を少し下ろした城咲がやっと紫音の身体を見下ろす。
「……!!」
そして紫音の白い脚の間を伝う、どす黒い赤色の液体に目を見開く。
城咲は黙ってその場に植木鉢を脇に置き、代わりに腕の中に紫音を包んだ。
「……」
今度は城咲が静かに右を向いて、やがて慎重に左を向く。
他人の声は聞こえない。
人の気配も感じない。
(……追って……きてない?)
紫音が城咲の腕の脇から覗き込むと、
ーーキイ。
非常階段の扉が、僅かに開いた。
(…………来た!)
「……い……あ……」
知らせたいのに声にならない。
しかし城咲はその気配を感じ取り、素早く振り返ると、着ていた薄手のジャケットを脱ぎ、それを紫音の頭から被せた。
「目をーー瞑っていてください」
城咲は静かに言った。
「僕の車へ」
城咲は言葉少なに言うと、紫音を後ろから支えるようにして歩き出した。
痛い身体が、
震える足が、
前に進む。
温かい体温が、
ワイシャツを通して背中に伝わってくる。
紫音は目を閉じたまま、城咲が導くままに進んだ。
ドアが開く。
車の走る音。
鳥の鳴く声。
信号機のメロディ。
街の喧騒が紫音を包む。
ファンファン。
上品なクラクション音につられて紫音が目を開けると、そこにはシルバーのSUV型ベンツが停まっていた。
導かれるまま助手席に乗り込むと、彼はバタンとドアを閉め振り返った。
「……!」
紫音もサイドミラーで確認する。
追ってはーーーこない。
正面から左ハンドルの運転席に回り込んだ城咲が、シートに身体を滑り込ませキーを回す。
「とにかく出しましょう」
城咲は静かに言うと、方向転換を行うために、助手席のシートに軽く肘をかけ、後ろを振り返りながら車をバックさせた。
そのとき―――。
物凄い音がして、城咲は慌ててブレーキを踏み込んだ。
前後に1回、揺さぶられるように大きく傾いた車体。
紫音と城咲が振り返ると、バッグガラスに張り付く2つの手があった。
「……きた!」
涙目で見つめる紫音を城咲は見つめた。
「紫音さん。できればダッシュボードに手をついて、肘で突っ張っていてください」
シートベルトを締める城咲に頷きながら、紫音はダッシュボードに手をついた。
城咲がギアを切り替えドライブに入れると、車はぐいと前へ進んだ。
「………!!」
もう一度振り返る。
「いや……!!」
そこには両手に抱えきれないほどの花束を抱えた、深雪が立っていた。
青ざめた顔。
見開いた眼。
それなのに口元はなぜか笑っている。
「逃げて!!逃げて逃げてぇ!城咲さん……!」
泣きながら割れる声で叫ぶ。
「……っ!」
城咲はバックミラーでその姿を確認すると、一気にアクセルを踏み込んだ。
キキキと高い音を響かせながら、車体が道路に出た。
右手に見えるファミリーレストランを通過する。
真帆とも訪れたことがある店。専門学校のすぐそばだ。
コンビニエンスストア、
市の水道局、
バス停、
公園。
手をつなぐ家族連れ、
日傘をさした老夫婦、
自転車に乗った女子高生。
見慣れた町の風景と、道行く人々の日常が、少しずつ恐怖に固まった紫音の心を融解していく。
「…………」
深雪は遠ざかっていくマンションを振り返った。
花束を持った深雪が、張り付いた微笑を讃えたまま、まだそこに立っているような気がした。
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