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「さっきの男は……?」
十分に間を置いて、3つ目の信号で停まると、城咲はやっと静かに口を開いた。
「専門学校の先輩です」
紫音も小さな声で答えた。
「名前とコースは知ってますか?」
頷く紫音に、城咲が控えめな視線を送ってくる。
「失礼ですが、知り合いですか。それとも彼氏?」
「知り合いです。授業が同じで、仲良くなって。それで昨日は食事に……」
「………なるほど」
体系の割には筋肉質の腕をハンドルに置いた城咲は、そこで小さくため息をついた。
「それで、突然襲われた……?」
「……はい」
紫音は膝の上で握った拳を見下ろした。
なんてーーーみじめなのだろう。
数度しか会ったことのない“お隣さん”に、こんなレイプの事実を知られてしまうなんて。
これからこの羞恥心を抱えて、どうやって生きていけばいいのだろう。
あの家でーーー。
紫音は視線を上げた。
「あの……」
「行きますか?」
声を発したのは同時だった。
「え?」
「警察に」
城咲は静かな視線を送り続けてくる。
「あ……」
紫音は一度唇をかみしめると、小さく息を吸ってから話し出した。
「警察に言うのって、親や家族の同伴なしに学生の私だけでもできます?」
「被害届を出すということですよね。できますよ。紫音さんはすでに20歳を超えてますから」
城咲は頷いた。
「じゃあ、家族にバレずにことを進めることもできますか?」
聞くと彼は小さく唸った。
「それは……正直難しいですね。
被害届を出すということは、捜査を依頼するということと同義ですから、被害者として取り調べを受けたり、実況検分への立ち合いを求められることもあるでしょうし、そのすべてを家族にごまかせるかといえば、できないと思います。
さらには、被害者である紫音さんのご家族にも参考人として取り調べが行われる場合もあると思います。たとえばーー」
泉の水が流れるようにサラサラと話していた城咲は、信号機の青色に合わせてハンドルを握り直し、ベンツを発車させた。
「例えばですけど、あなたが虚言癖のある元カノだという可能性もある」
「そんな……」
「紫音さんがいうように、ただの先輩なのか。付き合っていたりはしなかったのか。紫音さんの交友関係は?男性経験は?根掘り葉掘り聞くのは、仕方がないと思いますよ」
「…………」
紫音は再び膝の上で拳を握りしめた。
「しかし訴えるなら早くしないと。今、あなたの体はいわば証拠の塊です。あの男の唾液、精液は勿論、体に残っている痣、傷、痕、すべてが法的効力を持ちます」
唾液……。
精液――。
そんなものは紫音の体に残っていなかった。
だって深雪は、紫音を嘗めていない。
紫音に挿入していない。精液すら出していない。
『じゃあ、あなたは具体的に何をされたんですか?』
妄想の中のこちらをのぞき込む警察官は、城咲の顔をしていた。
「…………」
とても言えない。
石膏でできた人形を突っ込まれていたなんて。
それでガンガンと突き入れられ、泣きながら絶頂を繰り返したなんて。
「……言えない」
紫音は口を開いた。
「城咲さん。せっかく助けてくださったのに申し訳ないんですけど、このことは城咲さんと私の内緒にしてくれませんか?」
「……別に僕は構いませんが」
城咲が切なそうな声を出す。
「どうしても家族には知られたくない」
そう言うと紫音は両手で顔を覆った。
「紫音さん………」
城咲には自分がどのように見えているだろう。
学校の先輩にレイプされ、それでも家族に心配をかけまいと、独り耐えている健気な女に見えているだろうか。
そうならいい。
そうだといい。
石膏人形で処女を喪失したなんて恥ずかしいことを、弟に笑われたくないなんて。
酒を飲んでのこのこついていったことを母親に怒られたくないなんて。
綺麗だとせっかくほめてくれた兄を、失望させたくないなんて。
まるで王子様のように自分を助けてくれた城咲には、バレたくない。
「ご家族を心配させたくないって気持ちはわからなくもないです」
彼はわずかに頭を傾け、首の骨を軽く鳴らしながら言った。
「でも、学校はどうするんですか。また会うのは危険だと思いますよ」
「学校はーー辞めようと思います」
そうするしかないと思った。
コースは違えど、これから約2年間、深雪の影におびえながら通うのは嫌だし、何より授業でさえも、もう陶芸をみたくない。
「そうですか」
城咲はハンドルを両手で握り直した。
「紫音さんがそう決めたなら、僕は何も言いません。ただし決断と判断は慎重に」
城咲はそう静かに言うと、口を結び黙ってしまった。
大きなリュックを背負いながら立ち漕ぎをしているジャージ姿の男子中学生たちとすれ違う。
そのあまりに平和な光景に、紫音は深くため息をついた。
◆◆◆◆
「傷は大丈夫でしたか?」
「はい。擦り傷程度でした」
城咲の部屋でシャワーを浴びた紫音は、彼から借りたタオルを握りしめながら頷いた。
「幸運なことに服にはあまり血がついていなかったし、顔に外傷はないので、パッと見は怪しまれることもないと思います」
城咲はタオルを受け取りながらにっこりと笑った。
市川家と左右対称の彼のリビングには、所狭しと花瓶が並んでいて、そこには色とりどりの花々が生けられていた。
しかしそれとは対照的に部屋はソファとローテーブルだけという殺風景で、まだ荷解きを終えていないのか段ボール箱がいくつも転がっていた。
「ありがとうございました。本当に何から何までなんとお礼を申し上げていいか……」
恐縮して頭を下げると、城咲は「ははっ」と笑った。
「紫音さんは学生さんなのに、しっかりしてますね」
「それはだってもう……」
ーー20歳ですから。
その言葉がなぜか出てこなかった。
(あれ?なんだろう。この感じ……)
紫音は城咲の顔を見つめた。
何かはわからない。
わからないが、
何かがおかしい。
「さ、紫音さん。もうお昼近いから急がなきゃ」
城咲は微笑んだ。
「朝帰りのお咎めが待ってますよ」
そうだ。
母はカンカンに違いない。
妹思いの輝馬もきっと、紫音の帰りを待っていてくれるだろう。
「本当にありがとうございました……!!」
紫音はもう一度城咲に頭を下げると、あわてて靴を履いた。
「紫音さん」
その声に、タオルを持ったままの城咲を振り返る。
「気をつけてください。午後から天気、崩れるみたいだから」
思わず吹き出した。
「大丈夫ですよ。お隣だから!」
紫音は笑いながら、城咲の家を飛び出した。
その頃にはもう、彼との会話の中で引っかかった違和感のことは忘れていた。