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「俺も家に帰ってまで会社の中みたいな呼ばれ方はされたくないし、そもそも結婚したら天莉も〝高嶺〟になるんだがね? 分かってる?」
そう続けられて、何も言えなくなってしまった。
以来、会社以外で〝高嶺常務〟と呼び掛ける度に先のようなやり取りがあって。
尽はこの点に関しては一切妥協するつもりはないらしかった。
***
「高み……、じ、ん……はうちの実家へ行くの、緊張とかしないの?」
――ですか?
と続けたいのに、『せめて親御さんの前でくらいは、敬語も外せるといいね』などと追加要求をされた天莉は、実家へ向けて移動中の車内でも絶賛喋り方の練習中。
逆にギクシャクしておかしいのでは?と思うのに、何故か尽は天莉に砕けた口調で話されるのが相当嬉しいらしく、天莉が頑張るたびにふっと身にまとう空気が柔らかくなる。
それが、天莉の心をキュッと甘く疼かせるから。
つい無理してみたくなる頑張り屋の天莉だ。
***
「いらっしゃい」
天莉が「ただいま」と声を掛けてカラカラと玄関扉を開けるなり、パタパタとスリッパの音を響かせて、満面の笑みを浮かべた母――祥子に出迎えられた。
その後ろからゆったりと父――寿史が姿を現して。
二人して天莉の後ろに控えた尽に全神経を注いでいるのが分かった。
その視線に気付いた天莉が、玄関の引き戸をグーッと押して全開にしたら、自分のすぐ横へ尽が並んで。
ほんのちょっとだけ肩が彼の腕に触れた。
途端、天莉の心臓がバクバクとやかましく騒ぎ立てたのは、尽が天莉より二〇センチちょっと背が高くて、やたらと自分との違いを感じさせられたからだろうか。
そう。それだけでも天莉はノックアウト寸前なのだ。
なのに背後から吹き抜けた風が、尽が身に纏う香水――一緒に住むようになってBVLGARIのプールオム オードトワレという銘柄だと知った――の香りをふわっと天莉の鼻先へ運んで追い打ちをかけてくるから。
天莉の心臓は今にも口から飛び出してしまいそうに忙しなく飛び跳ねる。
「あ、あの……こちら――」
お陰様で自分の実家なのに、やたらと緊張して震える声で彼を紹介する羽目になった天莉だ。
だが、天莉のテンパり具合を察してくれたのだろう。
「初めまして。天莉さんと同じ会社で常務取締役をしております高嶺尽と申します」
尽が天莉の声を引き継ぐように、落ち着いた声音で自ら自己紹介をしてくれた。
安定の低音イケボなバリトンボイスは、それほど声を張ったわけでもないのによく通って。
名乗りを上げるなり、新入社員へお辞儀の仕方を教える際に使用するテキストさながら、上体を三〇度ほど倒して優雅な敬礼をした尽が、天莉には物凄くカッコよく見えた。
高嶺尽は、どんな時も立ち居振る舞いに気品があって美しい。
そんな尽に、その場にいた全員が気圧されたかと思いきや、母・祥子だけは違ったようで。
「常、務……取締、役? え? えっ⁉︎」
てっきり娘と同期の男性がくるものとばかり思い込んでいたのだから、尽の自己紹介を聞くなり祥子が戸惑いの声を上げたのは仕方がないことなのかも知れない。
そんな祥子の肩へポンと手を載せると、父・寿史が、「まぁ玄関先で立ち話も何だ。とりあえず上がってもらってから話そう」と母を促した。
その声に、祥子が「あ、ああ、それもそうね」と慌てて、「どうぞ」と言ってくれたから、天莉と尽はやっと玉木家の敷居をまたぐことが出来た。
***
天莉の実家は、元々は市役所近くのマンションだった。
だが、父に倣って地元市役所へ就職した天莉の二つ下の弟・天城が、去年幼なじみで同僚の女性と結婚したのを機にそちらは弟夫婦へ明け渡し、今は庭付きの一軒家に移り住んでいる。
今回天莉と尽が訪ねた、日本家屋然としたこぢんまりとした平屋は、家のすぐ前がバス停。
加えて徒歩数分圏内に総合病院などもあるといった結構好条件の立地で。
最初、町の中心部にあるマンションを弟夫婦に譲ると父母から聞かされたとき、今から年老いていく両親にこそ、元のマンションがふさわしいと思った天莉だったのだけれど――。
『エレベーター付きとは言え五階まで上がるのはねぇ。何かあったとき階段しか使えなくなるのを考えたらしんどいでしょう? それに――』
そんな言葉と共に続けられた新居候補の便利そうな立地と、もう一つの理由に、天莉は完全にほだされてしまったのだ。
***
「ほら、早く玄関を閉めないと。バナナが出てきたぞ」
寿史の言葉と同時、スルリと父親の足元を、母が平家に住みたがったもう一つの理由――茶トラ猫のバナナがすり抜けてきたから。
天莉は思わず尽の手を引いて土間に引き入れると、背後の引き戸をピシャリと閉ざした。
「天莉……」
実家の愛猫の逃亡という一大事を回避できたことをホッとしたのも束の間、すぐそばから嬉しげにうっとりと尽から呼びかけられた天莉は、バナナと名付けられた猫を逃したくない一心で、無意識に尽の手をギュッと握ってしまっている自分に気が付いて真っ赤になった。
「ひゃっ! ごっ、ごめん……なさっ」
ゴニョゴニョと尻すぼまりに告げられた謝罪に、尽が「どうして謝るの?」と天莉にだけ聞こえる小声で耳打ちしてきて。
耳朶を尽の吐息とバリトンボイスに掠められた天莉は、ますます茹でダコみたいに赤くなる。
なのに――。
「失礼します」
そんな天莉をよそに、尽が礼儀正しく両親に声を掛けるから。
今そんなことをされたら赤くなってるの、バレちゃうじゃない!とか勝手なことを思った天莉だ。
だが、幸いにして両親はバナナに気を取られていて、そんな娘の様子に気が付くことはなくて、「どうぞ」と愛猫に視線を落としたまま声が返る。
それを確認して、耳を押さえてキッ!と尽を睨んでから、天莉は慌てて尽から距離を取るようにして靴を脱ぎ捨てると、代わりに用意されていたスリッパを突っ掛けた。
と、すぐさましゃがみ込んだ尽が、天莉が今脱いだばかりの乱れたパンプスを綺麗に揃えて並べ直してくれて。
さすがにお行儀が悪かった!と反省したと同時、自分のすぐそば、跪く格好になった尽から見上げられて、天莉はドキドキが収まらない。
「……ごめんなさい」
それでもしどろもどろ。
懸命に粗相を謝ったのだけれど。
自身も靴を脱いで天莉のパンプス横に丁寧に揃え置いた尽から「謝られるより有難うって言われる方が嬉しいな?」と、微笑まれて。
ほんの一瞬だけ慈しむようにスリリッ……と頬を撫でられた。
その手つきの優しさに、天莉は尽から本当に愛されているのではないかと錯覚しそうになって、慌てて心にブレーキを掛ける。
(もう! この人ってばホント人たらしっ!)
さっきみたいにキッと睨み付けたいのに、照れ臭さが先行して上手く出来なくて。
そればかりか情けないことに瞳が自然と潤んでしまう。
それをどうにか誤魔化したくて呆然と立ち尽くしていたら、「どうしたの? 天莉」と頬に触れられて上向かされた。
絶対分かっていてやっていそうなその余裕綽々な態度にムッとして、
(全部全部貴方のせいです!)
そう抗議したい天莉だけれど、そんなことを言ったら逆に『どうして?』と問われそうで出来ない。
「もう、二人とも玄関先で何楽しそうなことしてるの? 早くいらっしゃい」
いつまでもついて行かなかったからだろう。
まるでイチャイチャしている恋人同士を見つめるような生温かい視線を母親から向けられて、天莉は頬へ添えられたままの尽の手から慌てて逃げた。
そんな娘に祥子がバナナを抱き上げながら、「あらあら、天莉ちゃんは照れ屋さんね」と苦笑して。
天莉には、いつの間にか天城だけでなく猫の弟も出来ていたらしい。
「お、お母さん、誤解っ! これ、そういうんじゃないからっ」
慌てて母親に言い訳をする天莉の腰へ尽がさり気なく手を添えて、「お母様も黙認して下さるようだし、行こうか、婚約者殿」と微笑んでくる。
(高嶺常務! どこまで私を追い詰めるおつもりですかっ)
その芝居がかった物言いと、ガッツリ掴まれた腰に、天莉は心の中、呼び慣れた〝高嶺常務〟と呼びかけて、懸命に抗議した。
***
応接間に通されて天莉の両親が着座する直前。
尽が予め用意していた手土産を差し出した。
「天莉さんからお二人は和菓子がお好きだとおうかがいしまして……。お口に合えば良いのですが」